清崎敏郎の百句 俳句は足でかせぐものだ 西村和子

2017年6月15日初版発行

 

表紙裏「虚子の言う『花鳥』は、自然界を総称したものと受け取れるが、人間もまた造化の主に造られ、生かされる存在であるという認識のもとに成り立っている。その証拠に、虚子の作品はいわゆる自然詠のみに収まらない。人事、人情をも自在に描いている。『諷詠』は、五・七・五の持つ韻律、すなわち定型の美である。俳句は韻文であり、散文の切れ端ではない。『切れ』や『間』は言うまでもなく、定型詩のみが持つ音韻を活かした調べや律動を尊重することだ。そのことを頭で理解するのではなく、自らの実作に活かし、俳句を味わうにあたっての信条となるまで、作りこみ、迷い、呻吟し、価値観を養うことだ。虚子・風生から叩き込まれた信念を、清崎敏郎はくり返し、私たちに辛抱づよく説いた。」

 

秋晴やエプロンのまゝボート漕ぐ   『安房上総』

卒業といふ美しき別かな       『安房上総』

雛僧がころりと昼寝むさぼれる    『島人』

手袋の手を重ねたる別れかな     『東葛飾』

うすうすとしかもさだかに天の川   『東葛飾』

凛凛と花びらを張る野菊かな     『系譜』

師の墓のすべなく灼けてゐたりけり  『系譜』  折口信夫墓の前書きあり

何故に踏みにじられし犬ふぐり    『凡』

草稿をつくろふといふ夜なべかな   『海神』

 

巻末の「師の後ろ姿」によると、学問の師と仰いだのは折口信夫、人生の師と仰いでいたのが高浜虚子高浜虚子先生、富安風生先生と受けつがれて来た花鳥諷詠と写生ということを掲げることにした(句集あとがき)ことから、冒頭にある表紙裏の解説に繋がっている。