テロルの決算《下》 沢木耕太郎

2014年6月10日発行

 

右翼の姿に絶望した二矢が最初に狙ったのは野坂参三で、決行日を10月13日としていた。その前日の12日の読売新聞の告知瀾で三党首立会演説会が日比谷公会堂で行われるのを知って急遽予定を変更した。2時開始のため2時前に到着していれば公安の面通しでチェックされていた。2時過ぎに到着したため刑事たちは会場内に入っていた。浅沼は中国から帰国した後、護衛を付けたいとの警視庁の申出を断っていた。愛国党の赤尾敏は2日前に平等な発言の機会を与えないならば実力で阻止すると抗議していたため私腹警官や整備員を増員していた。民社党の西野の次に浅沼が演題に立ち演説を始めた。愛国党員がビラをまき始めて取り押さえる場面があった。警戒の眼は赤尾と愛国党員に集中した。激しいヤジが飛んだ。4つのテーマのうち4番目のテーマである議会主義についての部分に差掛かろうとした時、司会のアナウンサーが聴衆に語りかけて一瞬のあいだ場内に静けさが戻った。入場券を持っていない二矢だったが、入口の受付の係員が差し出した入場券を得て公会堂に入った。5列目の席の後に行き、そこでかがみこんだ後、廊下に出た後、再び会場の扉を開け、右端通路から舞台に接近した。その時、アナウンスが入り演説が中断された。二矢は一気に駆け上がり舞台に上がり、鞘から刀を抜き右手で柄を握り左手の親指を下にして掌で柄の頭を押さえ腹の前に刀を水平に構え浅沼に突進した。舞台に姿を現して浅沼までほんの数秒の出来事だった。取り押さえるのに一瞬の空白の時間があったが、それはまたビラまきかという思いがあったからだった。毎日新聞の長尾靖カメラマンは瞬間的にシャッターを切っていた。この写真が全世界に流れた。日本人で初めてピュリッツァー賞を受賞した。3時5分に事件が起き、3時45分、死が公式に発表された。二矢の保護司は絶句しその日のうちに辞任を申し出た。翌日の紙面は全頁が浅沼刺殺事件で埋め尽くされた。大東文化大学は新聞紙上で本大学の学生ではない旨急告を出したが、玉川学園はかつて在籍したことを隠すことなく小原国芳は事件後も自分の大切な生徒とみなし山口夫妻をその両親として以前と少しも変らぬ暖かい遇し方をした。取り調べ中の二矢の落ち着いた態度は最後まで変わらず取り調べた公安刑事はその冷静さに舌を巻いた。一切の面会は禁止され、唯一林勝彦弁護士だけが会うことができた。取り調べが終わると鑑別所に移された二矢だったが、首を吊って自殺した。遺書はなく、「七生報国天皇陛下万才」と歯磨粉で壁に書かれていた。