あなたも今日から日本人 『国民の歴史』をめぐって 西尾幹二・長谷川三千子

平成12年7月28日第1刷発行

 

・中国の王朝は次々と交代したが、日本の天皇は変わらない。ここに天皇の本質がある。この本質とは古事記の冒頭にあるように、神がいて、その上に神がいて、またその上にというように上の神、上の神へとつながっていき、最後には何か分からないところに入っていくという構造にある。この構造を日本の本質として指摘した丸山眞男はこれが日本の「無責任」の原型を成しているとマイナスの捉え方をした。この構造ゆえに日本文化は主体性の永遠の欠如体であり、我々を救い難くダメな国民にしている原因だと論じるが、西尾は話は逆ではないかと疑問を呈する。それを受けて長谷川は、無責任体制ではなく、自らの道徳性の根をそこに求めていく構造であり、それは天皇を非常に謙虚な存在にしている所以であると論じる。

後鳥羽上皇隠岐に流した承久の変は日本史の分水嶺だが、その時も天皇は消えなかった。足利義満天皇になり代わろうとしたが周囲が反対して失敗した。日本という国は公権力は神棚に上げて後は合議で取り仕切っていくという一種の民主主義的体質というものを日本の特質として認めなければならない。

・西洋は凸型、攻撃型の文科であり、主語と述語の関係が支配、被支配の関係になっている世界観の中に生きている文化である。主語を持たない文章の中に生きている日本のある主説明の出来ない、誤解されやすい独自の言語文化と精神文化をどうとらえ直すか。西洋から見ても中国から見ても計ることができない、日本独自の尺度を確立して世界に大きく押し出していく。大変な仕事だが、そこにエネルギーを集中していくことが求められている。

・「が」と「は」の理論化

 既知のものに対しては「は」を使い、初出のものに対しては「が」を使うという大まかな区別があるが、この使い分けにはもっとはるかにはっきりした日本人の思考が現れている。そこをどう理論化していくか。西洋人の哲学の思考と対比させることによってそこに哲学的な意味を生じて来る。そういう作業が必要である。最初のショックは「が」で受け流し、その次は「は」に転換して吟味観察する。時間を置いて取り入れるというのは、「が」と「は」の二重構造に基づく日本人の基本的程度であろう。この二重構造の底にどのような日本語文法の基本があるのか。日本語の「てにをは」とはいったい何か。それは印欧語の主語述語機構と如何に対比すべきものなのか。

 

大変興味深く読めました。西尾さんという学者に対し無知の為に偏見を抱いていたことを知り恥じ入るばかりでした。