石壁の線より 宮城谷昌光

1991年7月29日第1刷

 

最初、何を書いているのか、さっぱり分からなかった。

が、突然、量子のレベルで、私と小説の関係を書き著わそうとしているのではないか?という疑問がむくむくと湧いてきた。著者の感性は私の感性とは違うから、私がそう勝手に解釈して読んだだけのことで、著者は本当はもっと別のことを言いたかったのかもしれない。

「君の《在る》と《無い》とは距離をもていない」、「私が見るものは、さまざまあっても、つまるところ、可能性というものだ。それもとらわれた可能性だ。いつでもとじられた本へかえることのできる、そういう可能性だ」、「言葉はどうしてむすびあい、意味をうみだすのか。人が言葉を動かすにせよ、言葉が人を動かすにせよ、《ある》という肯定の総体的で根本的な言葉を起点としないかぎり、それは微動だにしない沈黙する物体とかかわりがない、ということはわかる」、「私はなぜ《君》を書くのか。第一の問題はそれだ。そのほかの問題、たとえば、―君はいまどこにいるのか、―君はなになのか、については、これもいつもながら私にはわからないが、いまのところわかりたくもない。ただし、私がこころがけなければならないことは、不明を守ることではなく、不明をあらたにする、ということだ。したがって私は書く、私という単語からみる君という単語を発程にしてー、さらにいっさいの空間を解放するのぞみをたくしてー。」

人間が持った言葉、そこから紡ぎ出す小説という存在、そして必ずそこには読者がいる。読者が感じたことは私が感じたこととはもはや別物だ。距離はあるようでない。これは人間だからということで説明がつく問題ではない。量子で構成されているのが人間だからであり、物質も時間も全て量子で出て来て、捉えることが不可能だからなのだ。というように読んだ。

それにしても、文章は私的で美しい。こういう文章を書く人だったんだと、新しい一面を発見して、ちょっとおもしろかった。