私の履歴書 犬丸徹三(帝国ホテル社長) 日本経済新聞社 経済人4

昭和55年7月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版11刷

 

①石川県能美郡根上村に生まる

②運命を変えた中学進学

③笈を負って郷関を出る

④東京高商を出てボーイに就職

⑤英国に渡りガラスふきに専念

⑥米国から帝国ホテル入り

関東大震災と帝国ホテル

⑧昭和初期のホテル建設に一役

マ元帥らの宿舎設営に奔走

⑩日本は両陣営融和に最適の地

 

・明治20年6月8日石川県生まれ。東京高等商業学校、一橋大学で剣道に打ち込んだ。大学時代に禅に関心を抱く。就職は満鉄経営の長春ヤマト・ホテルに採用された。当初自分の職業を蔑視する観念が蟠っていたが、そのうち岩下家一支配人のホテル経営方針に耳を傾けるうちにホテル事業に対する興味が深々と沸き起こってきた。岩下氏の退社に袂を連ねて私も辞表を提出した。バリトン・ホテルにコックとして雇われた。本場欧州へ赴き研究するために英国に入った。当初窓ガラスふきの仕事で心が空虚になった。もう一人の窓ガラスふきの初老の男性に今の仕事に満足しているかと聞くと、拭えば綺麗になることをもって限りなき満足を覚えるとの言葉を聞いて打ちのめされた。職業に貴賤なし。以後その気持ちで働くことができるようになった。キチン・ポーターに欠員が出て後任に回してもらえた。日ごろの精励ぶりが認められコックに抜擢され英国料理の研究をし技術も上達したので、一流ホテルの料理場で研究を積みたいと思い、退職を願い出ると、証明書を書いてくれた。クラリッジス・ホテルで2年数カ月技術を学び、フランスに渡り、米国ではリッツカールトン・ホテルで働いた後、ウォルドルフ・アストリア・ホテルに移った。1年余して帝国ホテルの常務で支配人の林愛作氏から招きの手紙を受け取った。十年の流浪生活に終止符を打ち、帰国した。大正11年、帝国ホテル旧館が全焼。新館が完成し開業披露の9月1日、関東大震災に遭遇。もっとも倒壊もせず火災も免れた。危局に際し宿泊客すべてに宿泊料無料とし炊き出しを供した。ある時、右翼がホールで剣舞の嫌がらせをしたので、君が代を演奏させて、剣舞を続けた右翼を怒鳴り付け引き揚げさせた。新大阪ホテルをはじめ、全国にホテルが建設される際に尽力した。戦後10数年経過し、これからは自由陣営の人専用と共産圏専用に別れて発達するであろうから両陣営の共存融和を目指すべきではなかろうか。(昭和45年帝国ホテル取締役相談役に就任。47年より相談役。56年4月9日死去)