平林たい子(作家) 私の履歴書 文化人3

昭和58年11月2日1版1刷

 

①幼心に“金の世の中”を知る

女工哀史に義憤の涙

③『文戦』に小説を出すも落選

④心ならずも三度目の同棲生活

⑤新聞社の懸賞小説に入賞

⑥三・一五の大検挙による弾圧

特高に抗議し、脱走を手助け

⑧病の身を満員の留置場で

新日本文学発会式で失望

⑩“女性問題”でついに離婚

⑪取材旅行で外国へ

⑫余生に渾身の一打願う

 

・信州諏訪の百姓の娘だったが、早くから社会主義に魅力を感じていた。女学校を卒業すると東京市外電話局に就職し、ドイツ書籍店の店員になり、アナーキストに近づいた。震災時には戸塚警察署に検束された。銚子であいまい屋の片棒を担がされそうになって逃げ出し、転々と苦労しながら生活しているうちに反抗の中に投げ込んで一人合点の虚無主義を楽しむような人間では段々なくなっていった。懸賞小説に当選したり、「施療室にて」という短編で渡邉賞に当選したりした。結婚生活は上手く行かず、留置場で腹膜炎になった。私は夫の生きていたことから左翼に対し批判的だった。戦後の嘘の最大なものは平和運動だった。私は文化フォーラムの一員となった。乳がんとなり、病中に「愛と幻」を日経に1年近く書いた。(昭和47年12月17日死去)