鑑三・野球・精神医学 内村祐之

昭和48年10月22日発行

 

私の履歴書

・出生は明治30年11月12日、父は内村鑑三。ドイツ語を勉強させようとした父が「鶏口となるも牛後となるなかれ」の方針から独協中学に入学させた。独協、一高で野球で大活躍し、監督や批評家は今でも日本の生んだ五人の大投手の中に数えてくれた。東大医学部に進学し精神科を志望し、松沢病院で2年医員生活を送った後、父が自分を袖にした母校札幌農学校で若くして教授候補となり、父は大変喜び、ドイツ精神医学研究所に留学した。そこで出会ったクレペリンとスピールマイヤーは終生の恩師となった。10年程札幌で暮らした後、東大から招聘を受け10年ぶりに東京へ帰った。東大の神経科教授は松沢病院長も兼ねることになっていたので13年間院長として責任を担った。素質と環境の相互関係の問題を一卵性双生児と二卵性双生児と比べて研究し、質量両面で優れた研究を進めることが出来た。日本医学会総会の世話を2回経験し、東大医学部長に従事した。定年後、国立精神衛生研究所に就任したが、7か月で辞し、自力で作った神経研究所並びにその付属病院の清和病院に籠って研究と診療の日々を送っている。

 

その他、「スポーツ放談」(シゴくに値するほどの性根のあるやつは鍛えるし、そうでない者はシゴかないことである)、「異常な精神現象の進化論的解釈」、「鑑三の性格」、「家庭の人としての父鑑三 内村美代子」が収録されている。