山本丘人(画家) 文化人8

昭和59年1月10日1版1刷

 

①時を惜しむ

幼年時代

③事務官の父

④ガキ大将

⑤府立三中入学

⑥府立工芸へ

⑦国画創作協展

日本画志望

⑨美校一年生

⑩コンクール

⑪選科へ移る

⑫松岡塾

⑬異端児

⑭帝展落選

⑮低迷

⑯帝展入選

⑰雅号「丘人」

⑱個展

⑲松岡先生の死

⑳美校に職得る

㉑戦後あれこれ

㉒創造美術

 

・明治33年4月15日東京市生まれ(戸籍上)。医者になれと言っていた父も中学の成績が悪いのを見て言わなくなり、東京府立工芸学校に入学させた。府立工芸在学中、数えきれないほどの団体展、グループ展、個人展に接した。中でも国画創作協会の展覧会は心を大いに躍らせた。東京美術学校に進む。最初の暮らすコンクールの白猫はびりだった。やめたいと胸の内のわだかまりを口に出すと、松岡映丘先生からだらしがないと叱られた。学科の成績が悪いため本科から選科に移り、松岡教室に入った。卒業後帝展で何度も落選を経験し、30歳で「丘人」と自分で雅号をつけ、4年連続で帝展に入選した。32歳で銀座資生堂で個展を開いたが、3回目で終わった。東京美術学校の教員総入れ替えの時に助教授に就任。戦後、文展日本美術展覧会に名称変更し、審査員となった。女子美術専門学校(後の女子美術大学)の校長に頼まれ教授を引き受けた。昭和23年以降、創造美術展が開かれたが、新制作となり、その新制作も創画会となった。旗揚げして30年の歳月が過ぎた。