わたしの渡世日記 第2巻 高峰秀子

昭和60年10月10日発行

 

・私はいつも、自分の人生を「おかげ人生」だと思い、今もそう思っている。映画俳優の仕事は画家や彫刻家と違って、一人では絶対にできない。

・ジャーナリズムに殺されかかった「田中絹代」。押しも押されぬ大女優だが、日米親善使節としてロサンゼルスに渡るが、帰国した時の記事は彼女に対するバッシングの嵐だった。姉のような存在だった田中絹代が自らの生命を絶とうとするまでに深く傷つき、苦しんだ姿を見て悔し涙を流した。彼女は転覆しかけた船体を少しずつ自ら励まし起こすことにエネルギーを燃やし、その努力と意地と苦しみは彼女の演技をより冴えさせ、悟りを開いた如く昇華していった。

東宝に移籍し学校も文化学院に移ったが、結局そこも辞めた。学校へゆかなくても人生の勉強は出来る。私の周りには善いもの、悪いもの、美しいもの、醜いもの、何から何まで揃っている。そのすべてが今日から私の教科書だと言いきかせた。

・私の兄は、私という金の生る木を揺さぶり、事業の資金、その尻ぬぐい、また事業の資金、その尻ぬぐいが繰り返された。兄にとられた金は今でいえば1億をはるかに超えていた。夢を追っては夢に破れ、見果てぬ夢を見続けながら老い、58歳で病に倒れた。

杉村春子の演技には雷に打たれたようなショックを受けた。「これこそ演技だ!私が求めて、見たこともなかった芝居がここにあった!こんな上手い俳優がこの世に居るとは知らなかった」「これほどの演技を売らなければ俳優ではない」と思った。

黒澤明高峰秀子が婚約という記事が新聞に出たことで1週間軟禁され、その後黒沢さんと会った時に取り付く島もない表情だった彼を見て追う気が起こらなかった。

・母からお前なんか血塊だと罵られた時、心はヘンに静まり返っていた。

・師山本嘉次郎の言葉「好きも嫌いも仕事と割り切って、演る以上はプロに徹しよう。持てない興味もつとめて持とう。人間嫌いを返上して、もっと人間を知ろう。タクワンの臭みを、他人の五倍十倍に感じるようになろう」で目からウロコが落ちた。