わたしの渡世日記 第3巻 高峰秀子

昭和60年10月10日発行

 

・昭和21年、東宝の大争議が分裂して新東宝が設立されて以来、私は急激に青柳信雄プロデューサーと親しくなった。彼は毎日のように成城の私の家に出入りして、当時下宿していた市川崑や母などと麻雀を囲んだ。家を買い、母は兄、私の実父、後添いのマツを呼び寄せた。

・私が自分の意思で会を開き、お客様にお集まりを願ったのは昭和30年3月26日の私の結婚式の披露宴ただ一度である。川口松太郎と木下啓介の2人の仲人と、親、親戚ひっくるめて30人ぽっきりのささやかな披露宴だった。私は5万円しかなく、川口から20万円を借金し、松山善三が30万円借りて45万で一切合切賄った。

・映画演出家の中で小津安二郎ほど人望の厚かった人はいない。「小津安二郎・人と仕事」という本は立派な本である。小津の紹介で大佛次郎志賀直哉を知った。映画「細雪」で谷崎潤一郎を知り、谷崎の紹介で安倍能成ドナルド・キーン、武原はん・新村出を知った。

・120万円のダイヤモンドを購入したことで母と大喧嘩し、その後、青柳プロデューサーから松竹に300万円で売り飛ばされかけた時も大層驚いた。

・日本カラー映画第1回作品「カルメン故郷に帰る」は注目された。木下恵介監督の作品に以後、15,6本出演した。「女」を観た女性観客は女の感性をむき出しにした演出にぎょっとなって映画館を出たに違いない。