昭和59年3月2日1版1刷
①先々代能静の孫―6歳で喜多の養子に
②11歳で家元に―披露では鷺を舞う
③百日間の稽古を積んで「道成寺」を演じる
④六平太を襲名―門出の公演も大成功
⑤大正天皇御大典に「羽衣」をお目にかける
⑥難調―病いの苦しみを釣りにいやす
⑦関東大震災―伝書も装束も灰燼に帰す
⑧全国行脚―喜多流のよさを広く伝える
⑨戦争の痛手―自慢の舞台も空襲に会う
⑩終戦直後―再建の資金集めに演能旅行
⑪文化勲章受章―陛下に「鷺」の小謡上聞
⑫芸ひとすじ―無形文化財の誇りを胸に
・明治7年7月7日生まれ。6歳に喜多家に入る。9歳で初舞台。11歳で喜多流第14世の宗家を継ぐ。15,6歳から寒稽古は寒中21日間朝4時から2時間やり、夏稽古をやる。19歳で「道成寺」を舞う。明治27年に六平太を襲名。巾着のポルトガル語が「ロッペイタ」で、流祖が秀吉の腰巾着だということからついたあだ名を喜多家の代々の当主は名乗った。大正天皇ご即位の御大典の際「羽衣」を仰せつかり決死の心持ちで臨んだ。関東大震災で面を除きほとんどを焼失したため能を諦めかけた時に浅野長勲侯が舞台を贈って下さり能を続ける決心をした。心に張りが出来、全国津々浦々を回り歩いた。いつしか60歳を過ぎ、97歳の今日まで私ほど多くの弟子の弔いを出した師匠はいない。昭和20年、四谷の舞台は空襲のため焼け落ちた。震災と戦災で2度も無一文になった。文化勲章受章記念能で「翁」を舞う。82歳で人間国宝の指定を受けた。90歳以来、舞台には立っていない。今でも必ず出掛けて能を見ては楽屋で意見を言うようにしている。今も能を舞ながら眠りにつく。(昭和46年7月11日死去)