小泉八雲 日本を見つめる西洋の眼差し 筑摩書房編集部

2015年12月20日 初版第1刷発行

 

アイルランド人の父とギリシャ人の母のあいだに生まれる。名はパトリック・ラフカディオ・ハーン。幼少時にダブリンに両親とともに移住するが、両親の離婚によって親戚のもとで育つ。フランス、イギリスを経て、アメリカに渡る。通信社に就職し、1890年来日。松江、熊本、神戸、東京で暮らす。96年に帰化。海外に日本を紹介する書物を多く執筆。有名な作品は「耳なし芳一」。

 

松江で教師を務めたハーンは、型にはめる教育を嫌い、生徒に考えさせる教育を実施。そこで小泉セツと出会い、結婚する。軍都・熊本は心楽しくなったが、ここで『知られぬ日本の面影』執筆。長男・一雄誕生(後にあと3人の子をもうける)。神戸で帰化して「小泉八雲」。八雲は『古事記』に出てくるスサノオノミコトが詠んだとされる和歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」からとる。

 

東京帝国大学文科大学長の外山正一から英文学の講師として迎えたいとの意向を受け、96年に上京。学生たちには「近代的な日本文学の創造に役立てないのならば、英文学の勉強などは何の意味もない」と教える。ロシア民族の偉大さはツルゲーネフトルストイドストエフスキーの作品を通じて理解されたのだから、日本人自身が日本の姿を世界に示す文学を民衆の使う言葉で書くことこそ必要だと。講義を受けた文学者には正宗白鳥上田敏土井晩翠会津八一、野尻抱影などが。また再話文学に力を入れていた。

 

八雲の死後、『日本―一つの試論』1904年出版。この本のおかげで、天皇の責任を問わず、象徴天皇制を生み出した一つの有力の背景とされているそうだ。

 

耳なし芳一は知っていましたが、著者の来歴等については、今回、初めて知りました。明治初期の日本の西欧化に対する警告は、今も私たちが耳を傾けるべきものがあると思います。

 

100de名著 黒い皮膚・白い仮面 フランツ・ファノン 小野正嗣

 

カリブ海マルティニーク島フォール・ド・フランスで生まれたファノン。

1952年、黒人差別の構造を暴いた『黒い皮膚・白い仮面』が刊行され、後世に影響を与える。ファノンに影響を与えた人物として、マルティニーク島出身の詩人エメ・セゼール(「ネグリチュード」運動を提唱、植民地主義を批判)、サルトルがいる。ファノン以降に登場した黒人作家として、マルティニーク島出身の小説家パトリック・シャモワゾー、エドヴァ―ル・グリッサン、アメリカ出身のトニ・モリスン(1993年ノーベル文学賞受賞『青い眼がほしい』)、グアドループ出身のマリーズ・コンデがいる。

 

第1章では、

多くの人が日常語として使うクレオール語話し言葉で書き言葉ではないため、クレオール語に対し否定的評価をし、コンプレックスからフランス語を話せることでフランス文化に近づき、フランス語への憧憬を抱いているという言語的背景を説明している。

また言葉遣いからも、気づかないうちに差別的な態度を示していると指摘するファノンは、どんな肌の色であれ、皆、人間として平等だという人間観を『黒い皮膚・白い仮面』で主張している。例えば、白人よりもフランス語を巧みに操るという言葉を通して。

 

第2章では、

支配者の文化を強いる植民地的環境によって、黒人に「乳白化」の欲望を抱かせ、「白い仮面」をかぶらせ、内面まで白くなってしまう、「内面化される差別構造」を説明している。

『青い眼がほしい』(モリスン)についても詳しく取り上げ、黒人の人種的な自己嫌悪に陥る、劣等感、それがいかに人の心が破壊されるかを描いているとする。

 

第3章では、

ファノン自身が、ニグロ呼ばわりされたことで、その時感じた動揺を繰り返し表現し、「体験を思想に落とし込む」。それを「対象化され、切断される自己」と表現している。その上で、一旦は「ニグロであること」を引き受けつつも、再びどうすれば「地に呪われたる者」を解放することができるのかと問題提起する。

 

第4章では、

ヤスパースの「それらの罪が犯されるのを妨げるために、なしうることをなさないなら、私は共犯者となる」との言葉を引用しながら、ファノンがユダヤ人であれ、黒人であれ、人間に対してなされる差別は、すべて、一人の人間である自分に対してなされた差別であり、それを見過ごすことは、自分自身が差別に加担していることになり、同時に自分の中の人間を否定することになる、と訴える。誰の中にもある普遍的な人間を信じ、互いにそれを認め合う、互いに理解し合う方法への模索。そこから「ニグロは存在しない。白人も同様に存在しない」という結論に行きつく。

最後に「わたしの最後の祈り、おお、私の身体よ、いつまでも私を、問い続ける人間たらしめよ!」という叫びで締めくくられている。

 

 差別という問題を、内面化される差別構造という視点から、1952年という時代に掘り下げた一書。アジア人に対する差別が昨今再び問題になってきているが、アジア人の場合も同様なのか、更に別の切り口があるものなのか。固定化された差別は暴力である、と以前何かで読んだことがあるが、差別の問題は人間性の奥深くに直結する大事な問題であり、それをどう克服するか、常に問われ続けている。日本人だけがいる日本の社会では肌の違いによる差別の問題は意識しにくいが、いたるところに差別の問題は存在している。その差別の問題の根っこにあるものは恐らく全て一緒なのだろう。人間の内面を掘り下げた考察こそ、最も望まれる。

葛飾北斎 世界を驚かせた浮世絵師 芝田勝茂

2016年3月初版 2020年9月第7刷

 

LIFEが1998年に「過去1000年で世界の人々に影響を与えた百人」の中に、日本人からただ一人選ばれた、葛飾北斎印象派の画家に与えた影響、ジャポニズム、マンガの原点など、並べたら確かに世界に大きな影響を与えたことは間違いないですね。

 

勝川春章に弟子入りする際のエピソードとして、春章の線の使い方にしびれるほど関心したと答えた時太郎に春章が「わしが長年苦労してきたのが線だと言い当てるとは末恐ろしいやつ」と言ったらしい。勝川春朗として14年間絵を描いたが狩野派とつき合ったため破門されてしまい、一時期、東洲斎写楽(勝川派の伝統を全て踏襲し、写し楽しんでおちょくっている)として絵を描く(実際ボストン美術館にある北斎の版木の裏が写楽の版木であったことが1987年に発見された)。宗理と名乗った後に「北斎」を使い始める(1797年、38歳)。45歳の時、護国寺で畳120帖の大きな紙に済で大きな達磨大師を描き、江戸の人気者に。11代将軍家斉の前でも花鳥山図を描いたと思ったら鶏の足に朱肉を付けて絵の上を歩かせ、業平の歌を思い出せる、イキなことも平然とやって遂げてしまう。痛快極まりないですね。

馬琴の「説弓張月」に北斎はさし絵を描いて大人気に。最も両雄並び立たずで絶交してしまう。北斎の93回もの引っ越しは有名。片づけが苦手、気分を変えるためと説明されています(ここは確か諸説あったように思いました)。娘のお栄(葛飾応為)も女性浮世絵師に。1814年北斎漫画出版、約3900点。絵の百科事典ともいうべきものが。これをシーボルトがオランダに持ち帰る。1831年72歳で「富嶽三十六景」発表。「凱風快晴」「山下白雨」「神奈川沖浪裏」。武士が絵に登場してこないところに北斎の主張が隠れていると。更に薄墨で「富嶽百景」も出版(75歳)。「70歳前にかいてきた絵は、とるにたりないものばかりだった。73歳になって、やっと、鳥やけもの、虫や魚の骨格とか、草木が生まれて育つようすがわかってきた。きっと、80歳になればもっと進化するだろうし、90歳でものごとの秘密を解きあかし、百歳で技術は神の技となり、百数十歳になったら、わたしのかく点も線も、すべて生きているように見えることだろう」と。90歳で亡くなります。

 

日本が生んだ大天才の一人ですね。間違いなく。

公害とたたかった鉄の人 田中正造 砂田弘

1981年11月19日第1刷発行 2016年9月7日第28刷発行

 

公害と闘った人である、というの恐らく誰でも知っている。しかし、いつ、どんなふうに闘ったのか。かつて何かを読んで少しは勉強したような気もするが、すっかり忘れてしまった。もう一度勉強しようと思い、読んだら、本当に凄まじい一生だった。今の、恵まれた環境で生きている現在の我々からすると、想像できない、文字通り死に物狂いの大変な闘いを挑まれていた人であったことが良く分かる。

 

正造は1841年(天保12)、今の栃木県佐野市に生まれる。39歳で栃木新聞を起こし、翌年、栃木県議会議員に当選。1884年、44歳で三島道庸(みちつね)県令の圧政とたたかい、三島を県外に追い払うことに成功。県会議長に。1887年(明治20年)、渡良瀬川鉱毒事件がもちあがる。

足尾銅山は1610年に発見され、一時はかなりの量が掘られたが、江戸時代の末には廃坑同然に。ところが1877年(明治10年)、古川市兵衛が経営に乗り出してから産出量は激増し、初年度40トンが、10年後には4千トン、1891年には7200トンに。市兵衛は、農商務大臣の陸奥宗光の次男を養子にもらい、儲けるためなら何でもやるというような男。

1890年、第1回総選挙で衆議院議員に当選(50歳)。渡良瀬川大洪水により鉱毒が明らかに。1891年(51歳)、第2回帝国議会において、初めて足尾銅山鉱毒問題に関する質問書を提出。

1897年2月、国会で5度目の鉱毒問題で演説を行い、枯れ果てた竹を持ち出し、わらや桑の葉を取り出し、「鉱毒の街は人間の命も脅かしている。」「古川市兵衛は、鉱毒を垂れ流しているばかりか、山の木をどんどん切り出し、大洪水の原因を作っている」「役人たちのほとんどは古川の奴隷である」と訴える。やっと内閣に足尾銅山鉱毒調査会が作られるも、鉱毒予防のためにもっと力を尽くせという命令しか出さない。

1898年9月、渡良瀬川沿岸は大洪水に襲われ、農民たちは東京めざして2400名が押し寄せる。それを知った正造は氷川神社に農民を集めて、大勢で押し掛けてはいけない、社会を不安にさせる、だからおとめ申す、私が責任をもってみなさんに代わって政府に訴えます、それでも聞かなければその時こそみなさんはこぞって上京なさってよいと説得する。

1899年3月、国会議員歳費値上げ法案(800円を2000円)に反対するも、可決され、正造だけ2000円をつき返す。

1900年2月、正造は、「今日は『国が滅びようとしていることを知らなければ、やがて国は滅びる』ということについて、質問をしたいと思います」と言って、鉱山問題を涙ながらに取り上げる。ところが政府の回答書は「質問のない夜鵜がよくわからないので回答はしない。内閣総理大臣山形有朋」。このため正造は1901年、衆議院議員を辞める。死を覚悟して天皇が国会の開院式を終えて日比谷に差し掛かったとき突如飛び出して天皇の馬車めがけて突進する。警官に取り押さえられて天皇に文章は読んでもらえなかったが、新聞が取りあげ、演説会がいたるところで開かれるようになり、学生たちが現地を調査するように。

渡良瀬遊水地ができる土地には、もともと谷中村があり、この村を潰して貯水池にし、東京に鉱毒の水が流れ込むのを防ごうとした計画を阻止するため、正造は谷中村に入る。無理やり家を壊されても農民たちは頑張る。それでも1907年、16戸の取り壊しが強行され、農民たちは仮小屋を立てて生活する。正造は戦いの終わらぬうちに1913年(大正2年)73歳でこの世を去った。

昭和41年、正造が鉱毒問題を初めて追求して75年ぶりに国会の審議にのぼる。昭和43年水質保全法の水質基準が適用され、目標の0.06ppmに対し、足尾地点で0.49、大間町で0.251の銅が検出され、川が依然として死んだままだったことが判明。渡良瀬川が本当にきれいになったのは昭和48年に足尾銅山が360年の歴史を閉じ閉山した後のこと。昭和56年現在も汚染した土ときれいな土をそっくり入れ替える工事を延々と続けている。

 

こんな初期の時代に公害と戦い続けて、農民のために命をかけた偉人が過去にいたというのを改めて知り、己は何のために生きるのか?、何をすべきか?、を自己に問う。突き付けられている。

インディラ・ガンディー -祖国の分裂・対立と闘った政治家 筑摩書房編集部

2015年12月20日初版第1刷発行

 

インディラ・プリヤダルシニ・ネル―が、フェローズ・ガンディーと結婚して、インディラ・ガンディーに。ガンディーの姓は夫の姓で、ハマトマ・ガンディーとは血縁的なつながりはない。父が初代首相のジャワハルラル・ネルー。祖父モーティラール・ネルーはインド独立運動を指導した政治家。インディラ・ガンディーは第三代首相。通算15年の政権を担当。大国を率いる女性初の首相。アジアの鉄の宰相とも。

インディラ・ガンディーは、1984年10月31日、67歳でシク教徒の凶弾に倒れる。その直前の街頭演説で「自分の死など問題ではない。流す血の一滴までもインド社会のために尽くすであろう」と。インド国内の混乱の中で命を懸け続けた。凶弾に倒れる直前、日本の上野動物園に2頭の象が贈られる。名前はアーシャ(希望)とダヤー(慈悲)。父ネルーが日本の子どもたちに贈った象のインディラが49歳で死んだ代わりに。

幼い頃にマハトマのガンディーに影響を受け、インドの伝統文化への確固たる自信を持っていた。「私たちインドには西欧のすべてから学ばなければいけないという感情から逃れている数少ない民族です。もちろん学ぶべきことは、科学、技術、文化などたくさんありますが、マハトマが言ったように民族の根源から浮き上がってはなりません。根はしっかり自らの民族の中に立脚させないとだめなのです」(166頁)

インディラの死後、3000人ものシク教徒が殺害され、息子のラジブが後継首相に。5年後総選挙で敗退し退任。その後、遊説中にテロに巻き込まれ、91年に命を落とす。

ラジブの死後、シン蔵相(後に首相)が経済開放政策で外国の直接投資を増やして成功を収める。97年には不可触民出身のナラヤン大統領が誕生。21世紀にムンバイは金融都市に変貌し、2030年前後には世界第三位の経済大国になると予想されている。

インドの近代史を大まかに勉強するにはちょうど良い本です。余りインドの歴史には詳しくなかったので、勉強になりました。

世界のビジネスエリートが身につける 教養としてのワイン 渡辺順子

2018年9月19日第1刷発行 2019年1月23日第9刷発行

 

第1部 ワイン伝統国「フランス」を知る

フランスでは産地のブランドを守るために「AOC法(原産地統制呼称法)」が制定されている、というのをこの本で知りました。「Appellation ○○ Controlee」(アペラシオン コントロレ)の「○○」に産地の記載が。地域、村名、畑名と限定されればされるほど格上に。

2008年に法改正され、それ以降に作られたワインには「AOP」(PはProtegeeプロテジェ)と表記。

 

ナポレオン3世によるボルドーワインの格付け。最もランクの高い1級には「シャトー・ラフィット・ロスチャイルドロートシルト)」「シャトー・マルゴー」「シャトー・ラトュール」「シャトー・オー・ブリオン」。1973年に「シャトー・ムートン・ロスチャイルドロートシルト)」も1急に昇格。2004年に1945年産木箱入り(12本)が30万ドルで落札。6本箱入りは35万ドルで落札。ボルドー5大シャトー

 

ブレンドOKの西のボルドー(いかり肩)とNGな東のブルゴーニュ(なで肩)

ブルゴーニュ地方にある、コート・ド・ニュイ地区のヴォーヌ・ロマネ村(「神に愛された村」)は今もぶどう畑と醸造所と教会しかない。ボジョレー、シャブリも有名。

 

北のシャンパーニュ地方。瓶内二次発酵したもののみがシャンパン。偽物が多い。

ナポレオンは、「戦いに勝った時に飲む価値があり、戦いに負けた時に飲む必要がある」

ピエール・ペリニヨン修道士がうっかり放置でシャンパンが誕生(発見された)。現在はLVMH(ルイヴィトン社)が買収して手中に収める。

 

南のローヌ地区、さらに南のプロバヴァンス地区(地中海に面してます)、ロワール地区も聞いたことはあるよね、って感じです。

ドイツの国境沿いにあるアルザス地区のワインはゲーテも愛飲。ボトルが細長いシェープしているのもドイツの影響。自分のオリジナルワインを作ったらしい。

 

第2部 食とワインとイタリア

100種の品種のフランスに対し、2000種の品種を持つイタリア。料理に合わせて土着ワインがたくさん生まれ、産出量は世界一。輸出量もNO2。庶民的なのと、規制が緩いため高級ワインは限定的。

それでもピエモンテ州バローロ村のワインは「ワインの王様であり、王様のワイン」と称される。バルバレスコ村のガヤの作るワインも有名。

トスカーナ州キャンティもメジャー。但し現在はキャンティクラシコという名称。黒い鶏のシンボルマークがボトルに使用されている。スーパータスカンの象徴となったサッシカイア(法に縛られないトスカーナ州のワイン)やマセットはアメリカで大人気。モンタール地区も注目を浴びる。

ヴェネト州「アマローネ」はダンテの末裔が作り始め、「味わうアート」とも表現され、メディチ家から愛された。

 

第3部 知られざる新興国ワインの世界

ブラインドテイスティング「パリの審判」が1976年と2006年の2回にわたって行われた。カリフォルニア・ナパvsフランスで、なんと2度ともカリフォルニア・ナパのワインが勝ってしまった。「カルトワイン」は今やボルドーブルゴーニュと同様に注目されている。

 

今やワイン産業、投資としてのワイン。偽造ワインで120億円を稼いだといわれるルディー事件。まだ600億円相当の偽造ワインが世界に。2013年3月8日ルディー逮捕。これが日本に大量に入ってきているとの指摘もあるらしい。決して高級ワインを自己判断で買うのは止めた方がよさそう。

 

近年、特に評価を上げているのがチリワイン。「アルマヴィヴァ」。日本ではチリワインの輸入量が2016年にはトップに。「アルパカ」「サンライズ」「コルノス」(自転車をシンボルマークに)

スクリューキャップを初めて使用したオーストラリアワイングランジ」、「イエローテイル」、ニュージーランドワインも注目を集める。イエローテイルはブルーオーシャン戦略で世界一速い生産ラインで世界的ブランドに成長。

中国産ワイン「アユオン」が今最もホットなワインと言われているらしい。

 

こんな本を読むと、本当にワインが飲みたくなりますね。

今日は、帰りに、フランス、イタリア、チリワインあたりを買って、ブルーチーズで、家族と一緒に、美味しく頂きたいと思います。

荻野吟子 日本で初めての女性医師 加藤純子

2016年3月初版 2020年6月第6刷

 

男性と女性が肩を並べて勉強することさえ難しい、明治初期の時代に男性に交じって、紅一点、刻苦勉励して、医師になる。医師を目指したのは、自身の体験から、男性の医師ではなく女性の医師に診てもらいたいと強く思ったから。若くして決められた結婚をしたものの、病気になって離婚する。その後22歳を過ぎて上京して勉強を始める。明治7年、今のお茶の水女子大が出来た際、松本荻江に誘われて第1期生として入学(24歳)。卒業式の日、永井久一郎教授から進路を尋ねられ、医者になりたいと答えたことから、大学東校総長の石黒忠悳を通じて、好寿院(医学校)を紹介され、遂に医学校へ入学を果たす。荻野さん以外は、全員男性ばかりの環境で、揶揄嘲笑する周りの声に一切耳を貸さず石になると決めてひたすら勉強に励む。卒業し31歳で医師開業試験の願書をすると、前例がないとして差し戻しを受け、それでも執念をもって前例があることを突き止め(『和漢名数』い「女医博士」という言葉が載っており、更に調べると『令義解』という日本古代国家の基本法に女医が出てくる)、ようやく医師国家試験を受験することができ、合格を果たす。34歳。夢を追い求めて17年目。母に報告をすると母の眼から一筋の涙が。母はその直後に亡くなる。

本郷湯島に婦人科、小児科、外科として医院を開設。その後、13歳年下の志方之善と再婚。吟子39歳、志方26歳。一時、志方が理想を求めて北海道・瀬棚に移住する。

1900(明治33)年、後輩の吉岡弥生が今の東京女子医大を創設。同じ年に津田梅子も今の津田塾大学を創設し、翌年には今の日本女子大も設立。女性たちが自らの道を切り開く時代に。

その後、吟子の姉がいる熊谷に戻る。その後、志方が41歳の若さで亡くなる。吟子は向島に婦人科・小児科・荻野医院を開業し、時に本郷教会に礼拝に出かけ、日本女医会の例会に出席。雑誌第一号の巻頭を吟子が「女医の嚆矢」を執筆。刊行前に大正2年62歳で没。日本女医会は昭和59年荻野吟子賞を制定。

 

何事もファースト・ペンギンは偉大なものだと本当に思いました。