荻野吟子 日本で初めての女性医師 加藤純子

2016年3月初版 2020年6月第6刷

 

男性と女性が肩を並べて勉強することさえ難しい、明治初期の時代に男性に交じって、紅一点、刻苦勉励して、医師になる。医師を目指したのは、自身の体験から、男性の医師ではなく女性の医師に診てもらいたいと強く思ったから。若くして決められた結婚をしたものの、病気になって離婚する。その後22歳を過ぎて上京して勉強を始める。明治7年、今のお茶の水女子大が出来た際、松本荻江に誘われて第1期生として入学(24歳)。卒業式の日、永井久一郎教授から進路を尋ねられ、医者になりたいと答えたことから、大学東校総長の石黒忠悳を通じて、好寿院(医学校)を紹介され、遂に医学校へ入学を果たす。荻野さん以外は、全員男性ばかりの環境で、揶揄嘲笑する周りの声に一切耳を貸さず石になると決めてひたすら勉強に励む。卒業し31歳で医師開業試験の願書をすると、前例がないとして差し戻しを受け、それでも執念をもって前例があることを突き止め(『和漢名数』い「女医博士」という言葉が載っており、更に調べると『令義解』という日本古代国家の基本法に女医が出てくる)、ようやく医師国家試験を受験することができ、合格を果たす。34歳。夢を追い求めて17年目。母に報告をすると母の眼から一筋の涙が。母はその直後に亡くなる。

本郷湯島に婦人科、小児科、外科として医院を開設。その後、13歳年下の志方之善と再婚。吟子39歳、志方26歳。一時、志方が理想を求めて北海道・瀬棚に移住する。

1900(明治33)年、後輩の吉岡弥生が今の東京女子医大を創設。同じ年に津田梅子も今の津田塾大学を創設し、翌年には今の日本女子大も設立。女性たちが自らの道を切り開く時代に。

その後、吟子の姉がいる熊谷に戻る。その後、志方が41歳の若さで亡くなる。吟子は向島に婦人科・小児科・荻野医院を開業し、時に本郷教会に礼拝に出かけ、日本女医会の例会に出席。雑誌第一号の巻頭を吟子が「女医の嚆矢」を執筆。刊行前に大正2年62歳で没。日本女医会は昭和59年荻野吟子賞を制定。

 

何事もファースト・ペンギンは偉大なものだと本当に思いました。