公害とたたかった鉄の人 田中正造 砂田弘

1981年11月19日第1刷発行 2016年9月7日第28刷発行

 

公害と闘った人である、というの恐らく誰でも知っている。しかし、いつ、どんなふうに闘ったのか。かつて何かを読んで少しは勉強したような気もするが、すっかり忘れてしまった。もう一度勉強しようと思い、読んだら、本当に凄まじい一生だった。今の、恵まれた環境で生きている現在の我々からすると、想像できない、文字通り死に物狂いの大変な闘いを挑まれていた人であったことが良く分かる。

 

正造は1841年(天保12)、今の栃木県佐野市に生まれる。39歳で栃木新聞を起こし、翌年、栃木県議会議員に当選。1884年、44歳で三島道庸(みちつね)県令の圧政とたたかい、三島を県外に追い払うことに成功。県会議長に。1887年(明治20年)、渡良瀬川鉱毒事件がもちあがる。

足尾銅山は1610年に発見され、一時はかなりの量が掘られたが、江戸時代の末には廃坑同然に。ところが1877年(明治10年)、古川市兵衛が経営に乗り出してから産出量は激増し、初年度40トンが、10年後には4千トン、1891年には7200トンに。市兵衛は、農商務大臣の陸奥宗光の次男を養子にもらい、儲けるためなら何でもやるというような男。

1890年、第1回総選挙で衆議院議員に当選(50歳)。渡良瀬川大洪水により鉱毒が明らかに。1891年(51歳)、第2回帝国議会において、初めて足尾銅山鉱毒問題に関する質問書を提出。

1897年2月、国会で5度目の鉱毒問題で演説を行い、枯れ果てた竹を持ち出し、わらや桑の葉を取り出し、「鉱毒の街は人間の命も脅かしている。」「古川市兵衛は、鉱毒を垂れ流しているばかりか、山の木をどんどん切り出し、大洪水の原因を作っている」「役人たちのほとんどは古川の奴隷である」と訴える。やっと内閣に足尾銅山鉱毒調査会が作られるも、鉱毒予防のためにもっと力を尽くせという命令しか出さない。

1898年9月、渡良瀬川沿岸は大洪水に襲われ、農民たちは東京めざして2400名が押し寄せる。それを知った正造は氷川神社に農民を集めて、大勢で押し掛けてはいけない、社会を不安にさせる、だからおとめ申す、私が責任をもってみなさんに代わって政府に訴えます、それでも聞かなければその時こそみなさんはこぞって上京なさってよいと説得する。

1899年3月、国会議員歳費値上げ法案(800円を2000円)に反対するも、可決され、正造だけ2000円をつき返す。

1900年2月、正造は、「今日は『国が滅びようとしていることを知らなければ、やがて国は滅びる』ということについて、質問をしたいと思います」と言って、鉱山問題を涙ながらに取り上げる。ところが政府の回答書は「質問のない夜鵜がよくわからないので回答はしない。内閣総理大臣山形有朋」。このため正造は1901年、衆議院議員を辞める。死を覚悟して天皇が国会の開院式を終えて日比谷に差し掛かったとき突如飛び出して天皇の馬車めがけて突進する。警官に取り押さえられて天皇に文章は読んでもらえなかったが、新聞が取りあげ、演説会がいたるところで開かれるようになり、学生たちが現地を調査するように。

渡良瀬遊水地ができる土地には、もともと谷中村があり、この村を潰して貯水池にし、東京に鉱毒の水が流れ込むのを防ごうとした計画を阻止するため、正造は谷中村に入る。無理やり家を壊されても農民たちは頑張る。それでも1907年、16戸の取り壊しが強行され、農民たちは仮小屋を立てて生活する。正造は戦いの終わらぬうちに1913年(大正2年)73歳でこの世を去った。

昭和41年、正造が鉱毒問題を初めて追求して75年ぶりに国会の審議にのぼる。昭和43年水質保全法の水質基準が適用され、目標の0.06ppmに対し、足尾地点で0.49、大間町で0.251の銅が検出され、川が依然として死んだままだったことが判明。渡良瀬川が本当にきれいになったのは昭和48年に足尾銅山が360年の歴史を閉じ閉山した後のこと。昭和56年現在も汚染した土ときれいな土をそっくり入れ替える工事を延々と続けている。

 

こんな初期の時代に公害と戦い続けて、農民のために命をかけた偉人が過去にいたというのを改めて知り、己は何のために生きるのか?、何をすべきか?、を自己に問う。突き付けられている。