100分de名著 戦争論  ロジェ・カイヨワ 西谷修

戦争の本質は、そのもろもろの性格は、戦争のもたらすいろいろな結果は、またその歴史上の役割は、戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる(第1部・第1章)

 

国家は事故を肯定し、自己を正当化し、自己を高揚し強化する。その故にこそ、戦争は祭りに類似し、祭りと同じような興奮の絶頂を出現させるのである。そして祭りと同じように一つの絶対として現われ、ついには祭りと同じ眩暈と神話とを生むのである(第2部・第7章)

 

戦争は、影のように文明につきまとい、文明とともに成長する。

 

はじめに

 この本の第2部にあたる「戦争の眩暈」が1951年に発表され、それから第1部となる「戦争と国家の発達」が書き継がれて、約10年の月日をかけてまとめられ、1963年に刊行。その年、カイヨワはこの本により、ユネスコ国際連合教育科学文化機関)の国際平和文学賞を受賞。

 

第1回 近代的戦争の誕生

第2回 戦争の新たな次元「全体戦争」

 晩年のノーベルは、兄の死を自分と取り違えて報道した新聞に「死の商人、死す」と書かれていたことにショックを受けます。そして死後の声望を気にするばかりに、平和のために貢献することをアピールし、科学技術増進と文化の振興のためにと、莫大な財産の一部を基金とした「ノーベル賞」の創設を遺言しました(52p)。

 へー、そうだったんだ。本筋とは異なるエピソード的な話だけど、実は結構シニカルな意味を持たせているように思いました。

第3回 内的体験としての戦争

 「聖なるもの」という概念自体は、ドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーの著作『聖なるもの』(1917年)で有名になりました。それはキリスト教の「聖人」や「聖家族」というときのような「神聖さ」とは違って、もっとプリミティヴで混沌とした、恐れを誘うようなもの、それゆえにまた魅惑するようなものです。いや、「もの」というより、客観的に捉えられる物ではなく、むしろ感覚的な経験です(69P)。

 戦争が避けるべき「災い」あるいは端的に「悪」だと考えられるようになった、その転換を象徴するのは、アインシュタインフロイトの往復書簡です(83~84p)。

第4回 戦争への傾きとストッパー

 「テロとの戦争」「非対称的戦争と『セキュリティ国家』」「人権と『ホモ・サケル』」「ベローナを見よ」

 後半のキーワード(小項目)だけを拾ったものだが、国家対国家の戦争ではなく、テロ=非国家との戦争が9.11以降始まったことから、テロリスト=人権の埒外に置かれた、人類の敵を創出し、殺しても良い人間というカテゴリーを作り出してしまったために、そしてIT技術が格段に進化してしまったために、もはや現代の潮流にブレーキのようにつっかい棒を差し込むことが私たちに残された可能性ではないかと筆者は考える。その時にキーワードになるのが「人権」であり「教育」である。したがって「マルス」を見るのではなく、見てはいけないことになっている「ベローナ」を見よ、というのがカイヨワの教訓として受け止めようと思うと考察する。「未来を望むのなら、戦争の、汚辱にまみれ、醜くおぞましい、生々しくリアルな、禍々しいその姿を直視して、そこから目を逸らしてはいけない」として締めくくっている。

 

 とてもまとめ切れる内容ではなかった。

 カイヨワの「戦争論」そのものは読んだことはないが、こういう昔の名著を、今だからこそ読む必要があるのかもしれない。