別冊100分de名著 「日本人」とは何者か?  折口信夫『死者の書』 日本人の感受性 「モノ」とこいあう力がある 赤坂真理

 

 折口さんの小説そのものは、近く読んでみたい気がします。

が、しかし、この手頃な短さでコンパクトにまとめてくれている100de名著シリーズの中でも、相当難しい部類に入る小説のようです。

20歳の藤原南家(なんけ)の郎女(いらつめ)という今に生きる人と、既に亡くなっている大津皇子(みこ)が滋賀津彦という名前で登場する故人との間の、恋愛、そして鎮魂がセットになって物語が紡がれています。

冒頭で、志賀津彦が、死の直前に見て一目ぼれした耳面刀自(みみものとじ)のことをフラッシュバックして思い出す、ところから始まります。

私が驚いたのは、学生時代に感じたこと、指導教授に質問をしたことが、瓜二つのように描かれていた場面でした。

「鶯の鳴く声は、あれで、法華経法華経と言うのじゃてー。ほほ、どうして、えー。天竺のみ仏は、おなごは、助からぬものじゃと、説かれ説かれして来たがえ、その果てに、女でも救う道が開かれた。それを説いたのが、法華経じゃと言うげな。-こんなこと、おなごの身で言うと、さかしがりよと思おうけれど、でも、世間では、そういうものー。じゃで、法華経法華経と経の名を唱えるだけで、この世からして、あの世界の苦しみが、助かるといの。ほんまにその、天竺のおなごが、あの鳥に化け代わって、み経の名を呼ばわるのかえ」。これに対して何も答えて頂けなかったのですが。

さて、この本では、途中で、中沢新一さんのコラムが入ります。日本の古代信仰と仏教とのつながりは説明されてこなかったけれども、折口さんは日本人の心に本当の意味で仏教が降り立ったのはいつかということを、この死者の書で書いたのだと思うと解説されていました。日本人がもともともっていた死生観が仏教の死生観にうまくスライドしたことを小説全体を通して説明されているという解説を読んで、そういう見方があるんだなあと感心しました。

100de名著では、赤坂氏は耳面刀自に呼びかけていた滋賀津彦の亡霊が郎女の寝室を訪れようとする場面としてエロティックなシーンとして「乳房から迸り出ようとするときめき」を絶妙な官能表現と評していますが、ここは私には理解できませんでした。それでも亡霊の訪れを待つようになる郎女の悲恋の思いはその前後を読むと何となくですが、少しだけ分かる気もしました。

最後に、赤坂氏は、折口が言葉そのものに精霊が宿るとされた言霊について説明し、日本人古来の感受性が今も息づいていると指摘します。それにしても、最後の最後に出てくる「姫の輝くような頬のうえに、細くつたうるもののあったのを知る者の、ある訣はなかった」という表現は「涙」としてしか表しえなかったものだと。なぜならばあんなにも恋しい人が消えてしまった、一方で魂が救われたことをよかったとも。それを「涙」としてしか表しえなかったのではないかと指摘しています。こういうあたりは女性特有の感性のような気がします。郎女の絵の具を使って描いた絵が曼荼羅となり、恋愛と鎮魂が成就し、当時に突然終わりを告げたと解説しています。自分1人で読んだら決してこういう理解には到達できないことは間違いないので、こういう解説を頭に入れつつ、それを批判的な目線で自分で折口小説に挑戦してみたいです。