青春は美わし  ヘッセ 高橋健二訳

昭和 29 年 10 月 25 日発行 昭和 41 年 11 月 30 日 30 刷改版 昭和 60 年 3 月 10 日 59 刷

裏表紙に「何年ぶりかで家族の住む故郷に帰ってきた青年は、昔恋したことのある美しい少女に再会する。しかしその愛は実らず、その上、妹の友人への恋にも破れる。彼は孤独な、しかし清らかな思い出を胸に故郷を去って行く・・・・。ふるさとを懐かしみながら放浪に心ひかれ、地道に生きようと願いながら浪漫的な憧れに駆られる青春の心を抒情性豊かに謳いあげた表題作」とあった。この通りだと思う。
故郷の実家に久しぶりに戻ると、主人公のような気持ちになるのは何となく分かります。恋に破れる若き主人公が故郷を後にして旅立って終わる短篇ですが、個人的には実家に戻った主人公と母親との会話が印象的でした。

祈りをいつの間にか忘れていた主人公に対して母親は「お前を納得させるような人はまず現れないでしょう。でも、お前は次第に、信仰がなくては生きていけないことを、自分で知るでしょう。知識は全く何の役にも立たないんだからね。ようく知っていると思っていた人が、心得るとか確実に知るとかいうことが、なんにもならなかったということを、人に示すような事柄をすることが、毎日のように起きるんだよ。だけど、人間は信頼と安心とが必要なんだよ。教授とか、ビスマークとか、その他のだれかのところに行くより、救世主のところに行く方が、いつだってまさっているんです」という。主人公は「なぜ?」「救世主についてはそんなに確かなことはわかってないじゃあっりませんか」と尋ねても、母は「数しれぬ哀れな平凡な人がいるんだよ。その人たちはそれなりに、救世主を信じていたばかりに、喜んで安心して死ぬことができたのです。お前のおじいさんは、救われる前に、14 カ月も寝床で苦しんで悲惨な日を送ったのだけれど、救世主に慰めを得ていたので、愚痴も言わず、苦痛と死をほとんど楽しく耐え忍ばれたのだよ」と。そして最後に「信仰というものは、愛と同様、分別によるものじゃありません。だが、お前もいつかは、分別だけですべてに間に合うものではないということがわかるでしょう。そういう時が来たら、お前は困ったおりに、慰めのように見える全てのことに手を差しのばすでしょう。たぶんその時は、きょう私たちの話したいろいろなことを思い出すでしょう」と言ってこの場面は終わる。

この母の言葉の方が私にとっては、ずっとズシンと来た。