いつもの言葉を哲学する 古田徹也

2021年12月30日第1刷発行

 

言葉に鋭敏な感覚を持ち、思索を深めようとする哲学者の新書。

 語源原理主義は良くないが、現代的意味だけしか知らないのは貧しい。「しあわせ」は「仕合わす」という二つの物事がぴったり合った状態を指す言葉だったものが「幸福」という意味に移っていったという箇所を読んで納得した。が「かわいい」の方はちょっと私と感覚が違う。

 常用漢字表の弊害をあげ、躊躇をちゅうちょ、蔓延をまん延、改竄を改ざんとするなど、間の抜けた不恰好さを指摘する。ちなみに恰好は格好とも表記されるが、恰があたかも、ちょうどという意味を持つのに格好と表記すると、元々の意味の成り立ちを辿ることができなくなる、というのも頷ける。「夏草や 兵どもが 夢の跡」を理由にして「子ども」と表記することの正当性を説明するのも新しい発見だった。国の目安が規範に転嫁することの危険性を指摘する着眼点も納得。

 かみ砕くことと豊かな表現との間には緊張関係がありこの緊張関係は解くべきではない。言葉に鋭敏な筆者は「御不快な思いをさせて申し訳ありません」という言葉にも自らの過ちに誤っていないと一刀両断している(が、これはちょっと違うように私は思う。普通であればそう受け取られることがないのに変にそう受け取られてしまった時にはこの言葉は使わざるを得ないのではないか。結局、発言者と非発言者との具体的関係性なしにはその言葉の当・不当は判定不可能だと思うが、それを度外視してこの言葉自体を罪隠しのように扱うのにはちょっとした違和感がある)。

 カタカナ語についても筆者は例えば「ケア」という言葉の有用性(筆者は多面性、固有性と表現している)について言及する。気にかかるという受動的なあり方、気にかけるという能動的なあり方、大切に思うという献身的なかかわり方の全ての意味を含む言葉として言い換えることが難しい言葉の例としてあげる。他方でコロナ渦で生まれた多くの新しい言葉として「クラスター」は単なる患者集団という意味ではない、「濃厚接触」は触れてもいないのに濃厚接触というのはおかしい、「社会的距離」は本来は対人距離の確保というべきだったなど、専門家任せにするんではなく、多様な分野の有識者や各世代の市民の見解、感覚なども踏まえて、初期段階で新語の導入をよく吟味して適切な言葉を選び取る必要があると指摘する(このあたりはなるほどなあと思う)。

 「母」のつく熟語は置き換えが難しい、機械的な置き換えは言葉が息づく文化の伝統やイメージを損ないかねないとの指摘も納得。「女々しい」「英雄」もこの言葉ならではの意味合いがある。彼、彼女という三人称単数の言葉は明治時代から使われ出したのであり、以前は彼や彼らに政務差別的な言葉として用いられていた、とはいえ、以前の用法に戻るのも難しいとも。

 新しい生活様式という言葉について辛辣な批評を加えている(が、ここはそれほどのことでもないように思う)。「自粛を解禁」「要請に従う」という言葉は見出しによく使われるが、誤用であると指摘(確かに自粛は自粛であって、禁止されているわけではないので解禁はおかしい。要請は応じるものであって命令ではないから従うものではない)。

 発言を撤回する、とよく言うが、前言を撤回するのであって、発言したという行為を撤回することなどできない。

 「こする」「する」「さする」「なでる」の違いを炙り出す、の項目は、よくぞこれだけ違いをキチンと表現できるものだと感心する。

 「言葉」にこだわった本です。