時間と自由 ベルグソン 平井啓之/訳

1990年12月10日発行

 

 巻末の加藤典洋による「解説=テキストを読む 言葉にならないもの―哲学嫌いのベルグソン」によると、「『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい(中原中也『芸術論覚え書』)」と始まり、「この本の題は、『時間と自由』というのだが、およそ百年前、1889年に世に出たとき、ベルグソンがこの本につけた第は『意識に直接与えられたものについての試論』である。一見、何のことかよくわからないから、『時間と自由』のほうが通りがよいけれども、それでもやはり、原題のほうが、ぼくはこの本のあり方をよく示していると思う」と続く。

 加藤は、「人は、『時間』とは何か、を問うべきではない。なぜ「時間」とは何かと問うか、『時間』とは何かという問いが成りたちうるか、というようにこそ問うべきなのだ」と指摘する。その上で、「『時間』が問題になるのは、それがほんらい『空間』ではないものをさしているからだ」とし、時間は計測可能だから空間にほかならないともいう。この辺りから?となる。かつ「自由」は定義に向いておらず、自由は決定論に帰着するので、問題は「時間」「自由」をこのようにみなしてきた「哲学」の方だという。この辺りは私にはよく理解できない。加藤は最後に中原の言葉だけはぼくの中に違和感なく入ってくるとし、中原こそベルグソンに最も近い人間だとする。何となく分かる気がするが、それ以上でもそれ以下でもなく、結局自分の言葉で翻訳できないでいる。以下、面白そうな箇所の拾い読み。

第1章 心理的諸状態の強さについて

 色々な項目がある中で(「深い感情」「美的感情」「はげしい情動」等)、「精神物理学」の項目が気になった。そこではウェーバー、フェヒナーの、「ある感覚を引き起こすある刺激があたえられたとき、意識が変化に気づくためにその刺激を加えるべき刺激量は、そのものの刺激に対して一定の比を示す」というところから説き起こしているのに少し関心を抱いた。が、その先の中身を理解するには至らなかった。

第2章 意識の諸状態の多数性について―持続の観念

 「持続と同時性」「真の持続」「自我の二つの様相」など興味を引く箇所を読もうとするが、難解すぎて頭に入ってこない。

第3章 意識の諸状態の有機化について―自由

「物理的自由」「心理的決定論」「自由行為」「真の持続と偶然性」「真の持続と予見」「真の持続と因果性」「自由の問題の起源」という項目から構成されていて、面白そうだと思うのだが、残念ながら私にはまだ到底理解できない。

 最後に、「結論」として「常識へ戻ること」「カントのあやまり」が掲げられていて、もしかしたら理解できるかも、と期待を抱いたが、無理だった。

 結局、感覚は量的でなく質的なもの、時間も量的ではなく質的で、自由は事実と割り切ろという事なのか?良く分からないので、改めて自分を深めてから、再読にチャレンジしなければならない一冊だった。