孤独な群衆〈下〉デイビィッド・リースマン 加藤秀俊/訳

2013年2月21日発行

 

巻末のトッド・ギトリンの解説によると、書物は時に世論を左右するだけの影響力をもち、直接的に社会を変えるだけの力をもっていた、1977年のハーバート・ガンスの研究によれば、『孤独な群衆』は発行部数140万部、リースマンはアメリカが生産第一主義の社会から消費中心の社会に変貌したことを主題にした、上層中産階級では年長者から「植え付けられた」目標を内在化させた「内部指向型」人間にかわって「他人からの期待や好みに敏感な」「他人指向型」人間が登場した、内在的な羅針盤によって進路をきめる人間からレーダーによって誘導される人間に変貌した、それはマス・メディアによって掌握されている、という。

 

1964年版への訳者あとがきでは、『孤独な群衆』は、『菊と刀』の到達したところを出発点として大胆な歴史段階説を展開している、著者は3つの性格類型について道徳的価値評価を下そうとせず、プラスマイナスの二面性を持つものとし、またアメリカの多様性を浮かび上がらせている。

 

下巻の特徴の一つは、恐らく、第12章に始まる、「適応か?自律か?」にある。

適応型はこれまで論じて来た大部分の人たちで、このパターンに同調しない人はアノミー型か自律型であるとし、自律型とは全体的にみてその社会の行動面での規範に同調する能力をもちながら、それに同調するかしないかに関しては選択の自由をもっているような人間で、アノミー型とは社会の行動面での規範に同調する能力に欠いているとする。基準は性格構造が社会的規範に従順であるかどうかによって識別されるとする。

 

『孤独な群衆』をめぐる半世紀―改訂訳版へのあとがきでは、本文の末尾を引用する形で締めくくっている。「たったひとつだけわたしが確信していることがある。すなわち、自然の恵みと人間の能力には無限の可能性があり、人間の能力はそれぞれの人間の経験をじぶんじしんの力によって評価できるだけのものをもっているということである。したがって、人間はかならずしも適応型にならないでもすむし、また適応に失敗しないでもすむし、アノミー型にならないでもすむのである。人間はうまれながらにして自由で平等であるが、という考え方はある意味では正しいが、ある意味では誤解をまねくいい方だ。じっさいのところ、人間はそれぞれちがったようにつくられているのである。それなのに、おがたいがおなじようになろうとして社会的な自由と個人的な自立をうしなってしまっているのだ」と。

 

みすず書房のこの本は42版を重ね累計16万冊を超え、新しく「始まりの本」の一冊に加えられた。