2021年4月15日初版
「郵便の父」と呼ばれ、1円切手にのっている「前島密」。1835年、新潟県上越市の農家の次男として生まれ、幼くして父を亡くし、教育熱心な母に育てられる。竹島穀山に影響を受け、漢詩や俳句のつくり方を教わる。幼名房五郎時代に「夕鴉 しょんぼりとまる 冬木立」という句をよみ、大いに褒められるが、母は房五郎をたしなめる。「思いあがってはいけません。世の中には幼いころ人にほめられて、自分の才能におぼれてしまい大成しなかった人が多いのです。あなたもそうなるのではないかと思うととても心配です。将来をあやまることがないように」と。これを生涯のいましめにする。また倉石侗窟(とうか)という儒学者に四書や兵学の基本を学ぶ。12歳でオランダ医学を学ぶため江戸に上京。筆耕の仕事をする中で西洋事情を学び、18歳でペリー来航を実体験する。国防のために国や地方の実態を知るため旅に出る。長崎の海軍伝習所で竹内宇吉郎の応援を受けて伝修生と同じように学ぶ機会を得る。軍艦操練所で学んだ後、函館で武田斐三郎に弟子入りし航海術・測量術を学ぶ(この時武士らしい名前にするため「巻退蔵」と名乗る)。実地体験をするため、函館丸に乗り込み本州の周りを一周する。井伊直弼の暗殺事件を機に江戸にもどるが、再び長崎で英語を学ぶ。故郷に手紙を出したくても当時は飛脚しかなく不便を感じた退蔵は伝道師ウイリアムズにアメリカの事情を聴き通信制度があることを知り、初めて「切手」を見る。長崎の英語稽古所で退蔵は塾長を務めた後、鹿児島の開成学校で英語を教えてほしいと請われて1年程教える。そこで大久保利通と知り合い商船事業の必要性を説く。兄の病気のために故郷に帰ると薩長同盟が成立。薩摩に帰らないと決めた退蔵はおわびの手紙を書くが途中で行方不明となり薩摩に届かず薩摩の怒りを買う。江戸にもどった退蔵は旗本から意見を求められ大政奉還を説くも、幕臣でなければ将軍に会えないと言われる。そんな時、前島家の跡継ぎ話が退蔵に舞い込み、32歳で前島頼輔となる。開成所(後の東京大学)で反訳筆記方をつとめる。また漢字を廃止してかなを使うべき(誰でも読み書きが容易く出来るようにするため)という意見を将軍に提案するも、誰からも関心を持たれず受け入れられなかった。開成所教授の地位を捨てて、開港が決まった兵庫奉行の手付となる。大政奉還が実現し、江戸遷都の建言書をつくり、1年後に江戸遷都が実現。また無血開城が実現すると、勝海舟から駿河藩留守居役に任じられる。その後官位に用いる漢字を一般人の名前に使うことが禁じられたため「前島密」(『中庸章句』から密の字を取る)に改名。民部省に改正掛勤務の声がかかり、上席に渋沢栄一が。改正掛は通信と交通機関の整備に取り組み、租税金納化を立案し、「郵便」という通信制度名を命名する。イギリスにわたる途中、船内のメイルボックスや消印の存在を知り、手紙に詳しく書いて日本に送る。世界に先駆けて郵便制度を実施したイギリスで郵便制度の情報を集め、国営にすること、料金を均一にすること、前納して切手を貼ることを学ぶ。郵便為替、郵便貯金、郵便保険も持ち帰って日本での実現を目指す。1871年、郵便局が62か所に開設され、書状を出すポストも設置。翌年には郵便の全国実施が実現し、郵便局も全国で1000か所を超える。当初まちまちだった料金も距離別の一律料金に改訂。新聞の郵送料金は書状の半額だったが、日刊紙はまだ1紙しかなく、自ら郵便報知新聞を創刊。後に距離によるのではなく全国均一料金制を取り入れる。国内郵便制度を実現すると外国郵便を実現すべく万国郵便連合に加盟。駅逓総官を辞任した後は近代日本のために教育が大事であると考えて東京専門学校(早稲田)の校長を務める。逓信省が新設されると逓信次官となり郵便局と電信局を統合し郵便電信局とし電話の開設に力を尽くす。男爵が授けられ、貴族院議員にも選ばれる。享年84歳。
「縁の下の力持ちになることをいやがるな。人のためによかれと願う心を常にもて」