永田耕衣の百句 卑俗性を対象化する 仁平勝

2022年7月15日初版発行

 

表紙裏「ところで、耕衣の俳句が難解といわれたのは別の理由もある。いま独自な俳句論と書いたが、そもそもその理論が難しいのである。もっともそういう理論は、耕衣の俳句を読むためには必要ない。たとえば耕衣は禅に傾倒し、その思想についてしばしば語ってきたが、耕衣の愛読者は、俳句から禅の思想を享受しているわけではない。耕衣の句が読む者を魅了するのは、五七五の言葉がときにその意図を超えて飛躍するからだ。そこには、定型の力学を感知する先天的な言語感覚があるのだが、それは理屈で論じることができない。ただしここでは、永田耕衣という作家を理解するために、そうした独自な俳句論(あるいは俳句観)とも付き合ってみたい。となれば私たちも、『俳句的』なパラダイムを離れないといけない。」

 

春の鶴真白き糞を落としけり   『加古*傲霜』

春の鳥双眼鏡に一つかな     『與奪鈔』

猫の恋する猫で押し通す    『驢鳴集』

かたつむりつるめば肉の食い入るや『驢鳴集』

物として我を夕焼染めにけり   『驢鳴集』

近海に鯛睦み居る涅槃像     『吹毛集』

退職す海行く鯛と同じ向きに   『吹毛集』

淫乱や僧形となる魚のむれ    『闌位』

まないたに載ること易し春の鯉  『闌位』

寂しくて道のつながる年のくれ  『殺佛』

遺影妻春や雲公してくるよ    『人生』

柿の菷みたいな字やろ俺の字や  『狂機』

 

巻末の「『俳句的』なパラダイムを離れて」によると、耕衣は「根源とは東洋的無である」と論じ、俳句を俳諧と考えていた。蕉風ではなくそれ以前の談林俳諧を指針とする。「みずからの卑俗性をおもしろおかしく荘厳する世界、その表現の端的が俳諧であり、談林の志」と述べている。

なるほど。そういう観点から改めて読み直してみると、面白みが増す。