日本辺境論 内田樹

2009年11月20日発行 2014年11月15日38刷

 

帯封「新書大正2010第1位‼日本人とは何ものか?これ以降、私たちの日本人論は、本書抜きでは語られないだろう。養老孟司さん絶賛」「私たちはどういう固有の文化をもち、どのような思考や行動上の『民族誌的奇習』をもち、それが私たちの眼に映じる世界像にどのようなバイアスをかけているか。それを確認する仕事に『もう、これで十分』ということはありません。朝起きたら顔を洗って歯を磨くようなものです。一昨日洗ったからもういいよというわけにはゆきません。(『はじめに』より)」

表紙裏「日本人とは辺境人である―『日本人とは何ものか』という大きな問いに、著者は正面から答える。常にどこかに『世界の中心』を必要とする辺境の民、それが日本人なのだ、と。日露戦争から太平洋戦争までは、辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。丸山眞男、澤庵、武士道から水戸黄門養老孟司、マンガまで、多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。読み出したら止らない、日本論の金字塔、ここに誕生。」

 

・「ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識」に取り憑かれている(梅棹忠夫『文明の生態史観』)。

・著者は丸山眞男を引用しながら、日本は変化するが、変化の仕方は変化しない、個人についても国家についても、日本人はいつも自分より優れた新しい物を探し求めている。「日本はしかじかのものであらねばならない」という国民的合意を持たない。「よその国はこうこうだが日本はこうだ。だからよその国を基準にして正そう」という、他国との比較しか日本を語らない、と述べる。

・私たちは国際社会のために何ができるのか、これは明治維新以来現代に至るまで、日本人がたぶん一度も真剣に自分に向けたことのない問いです、と指摘する。

・今に至るまで日本人は世界標準を作る力もない、日本がそれらを制定しようとするとき「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからだ。外部に保証人の姿を認めている時点で、それは世界標準ではない。明治以降も日本は華夷秩序を採用し続け、他国の作った世界標準を追い続けた。

・辺境とは、中華の対概念であり、華夷秩序というコスモロジーの中で初めて意味を持つ。朝鮮が中華との近さ故に国風文化や政治体制でオリジナリティの発揮に苦労する中、日本はその遠さを言い訳にフリーハンドを得た。それは面従腹背の姿勢に現れる。

 

君が代に最初に曲を付けたのはイギリス公使館にいた軍楽体調のジョン・ウィリアムス・フェントン。洋風の音階でなじみが悪く宮内省雅楽伶人により改作されそれをドイツ人フランツ・エッケルトがアレンジした。どこの国にも国家があって日本だけないとまずいとフェントンがアドバイスしたことが国家制定のきっかけだった。

・清水の舞台から飛び降りるような決意が、学び始める力である。日本人は世界一上手くこの力を利用する。

 

・宗教的辺境性は、己れの霊的な未熟さを中心からの空間的隔絶として説明できてしまうため、今まさにこの場において霊的成熟が果たされねばならないという緊張感を持てないことにつながる。武道館や禅家は、“今まさにこの場で”という切迫感を持つために時間をたわめてみせた。それは機の思想と呼ばれる。このスキームから利益を得ることができるのは辺境人だけで、中華人たちは機の思想とは無縁。

・日本人の辺境性をかたちづくっているのは日本語という言語そのもの。日本語は表意文字表音文字を併用する言語でそこに特殊性がある。日本語は正統と土着の二項対立と共存が行われているハイブリッド言語だ。

・かつて岸田秀は日本の近代化を「内的自己」と「外的自己」への人格分裂という言葉で説明した。世界標準に合わせようと卑屈に振る舞う従属的・模倣的な「外向きの自己」と、洋夷を見下しわが国の世界に冠絶する卓越性を顕彰しようとする傲岸な「内向きの自己」に人格分裂するというかたちで日本人は集団的にくるっていくというのが岸田の診断だった。この仮説は近代日本人の奇矯な振る舞いを見事に説明した理論で、現在に至るまで有効な反証事例によっては覆えされていないと思う。

 

親鸞ハイデッガーの辺りはちょっと難しくて理解が追い付けなかったが、それ以外は平易な言葉でよく分かった(気がする)。