2012年12月10日発行
大阪朝日新聞に入社した鈴木は、京都支局で1年、大阪本社整理部2年の後に退社してドイツに出発。選抜されてのドイツ行きだった。ヒトラーを批判する原稿を書いた。
わたしはすこし不安になった
けれどもわたしは共産主義者でなかったので
なにもしなかった
わたしの不安は前より強くなった
けれどもわたしは社会主義者でなかった
だからやはりなにもしなかった
学校が、新聞が、ユダヤ人が
というふうにつぎつぎと攻撃され
そのたびに私の不安は強まったが
それでもわたしはなにもしなかった
それからナチスは教会を攻撃した
わたしはほかならぬ教会の人間だった
だからわたしはなにかした
しかし、そのときはすでに手遅れになっていた
ドイツの牧師、マルチン・ニーメラーの有名な詩である。隣人がひとりずつ消されても無関心だった者は、共謀者ともいえた。鈴木もブラックリストに載り、国外退去命令が出され、8年ぶりに帰国した。帰国後もナチス批判を徹底した。フリーランスをやめて読売新聞社に入社したのは1935年。外報部次長、外報部部長を経て論説委員となる。ドイツ大使館から鈴木の解職が要求されたが、正力は拒否した。正力が社長に就任した1924年に5万分だった読売新聞は敗戦直前に192万部へと拡大をとげたのは侵略戦争への協力、紙面を通じての荷担によるものとされている(『戦後危機における労働争議』資料第6集)。参謀本部に呼ばれても鈴木は意気軒高だった。横浜事件の際には言論活動の中止を条件に起訴猶予となった。一時期岩手県に戻ったが、戦後直後に再び上野に戻った。