反骨《下》鈴木東民の生涯 鎌田慧

2012年12月10日発行

 

40歳で読売新聞に再就職し、戦後日本の最初の争議、正力と東民がはじまる。第1次争議が解決したのは1945年12月11日。組合側が正力たち経営派に勝利した。解雇は撤回され、解雇を言い渡した正力は戦犯として拘置所に収容された。東民は編集局長、主筆、社会部長を兼務した。翌年3月のトルーマン宣言(ドクトリン)とレットパージという対日占領政策が転換されると、第2次争議では敗退し、解雇されて社を去った。その後、社共推薦の候補として国政選挙に臨んだが落選。48年12月に共産党に入党したが、51年3月には離党する。60歳で釜石市長となり、革新市長として注目を浴び、2期、3期と務めたが、4期目で落選。市議会議長・社会党の県議と闘って敗れた。72歳で市議会議員選挙に出ると、トップ当選した。狷介孤高、直情径行、非妥協性、貴族趣味、激昂、傲岸などと形容された。しかし2期目は惨敗した。遠くだけを見て地元への思いやりがないことが人気急落の原因だった。84歳、聖母病院にて亡くなる。千葉秀雄は「反骨警世の自由人」と言った。

 

死ぬまでペンを握り続けた人だったようだ。