昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①祖母のこと
②大阪気質
③十七歳で跡をつぐ
④ビール界にのり出す
⑤ビールの歴史
⑥日華事変時代
⑦終戦前後の苦闘
⑧GHQに助けられる
⑨二社に分離のころ
⑩清涼飲料のいろいろ
⑪人生修行の場“クラブ”
⑫洋楽に感激
⑬音楽家招待の道開く
⑭民芸運動に尽す
⑮火中の栗を拾った東宝問題
⑯根津嘉一郎のことども
⑰先輩師友に恵まる
・明治26年4月大阪生まれ。祖母から厳格な教育を受けた。物への愛と人への愛とは明らかに違うべきものであることなど教えられた。大阪には渡辺崋山の書いた商人訓がある。一番はじめに「召使いより先に起きよ」とある。もう一つの戒めで記憶にあるのは「近所に同業ができたら誼みを厚くして相励め」である。日本のビールの歴史は、明治初年にサッポロビールがはじめで、明治20年過ぎにエビスビールが名乗りを上げ、アサヒビールが大阪に誕生して活況を呈するようになった。明治33,34年にサッポロビールが東京吾妻橋に分工場を作り、加登登ビールができ、時代の脚光を浴びるようになった。昭和8年に空前の大競争が起こり、麦酒共販会社が出来た。苦労を重ねてビールの原料は全部日本で出来るようになった。戦後GHQに呼ばれ酒はすべてストップという指令を受けたが、ビールの原料となる麦は一日の食糧の3百分の1で、たった1日分の食料だから食糧配給を1日ずらせばビールを飲ませられると説明してGHQも納得してくれた。会社を二つに分けることになり、朝日麦酒と日本麦酒に分離した。ラムネが英国から日本に入ったのが明治の初め。サイダーはリンゴでつくったシャンパンのことだった。私の心の恩師の川合信水先生は聖書を論語で説き、論語を聖書で解明され、当代随一の言行一致の聖者だった。(昭和41年会長をも兼ねる。同年2月4日死去)