昭和59年1月10日1版1刷
①回顧展
②徒弟奉公
③友禅の世界へ
④新弟子
⑤野球
⑥工房の仕事
⑦日本画を習う
⑧雅号
⑨塾頭格に
⑩技術みがく
独立
⑫得意先の仕事
⑬撒き糊
⑭蒔糊
⑮初の個展
⑯京都機械
⑰終戦
⑱第二の独立
⑲家を佐賀右
⑳問屋「市田」
㉑伝統工芸展
㉒査員に
㉓京友禅研究会
㉔創作のヒント
㉕家族
・明治42年12月10日滋賀県生まれ。12歳で小学校を卒業後、薬局に奉公した。当初は薬剤師を目指し薬学校の夜間部に通ったが制度が変わったため薬剤師になれなくなり、好きな絵を書き始めた。私の絵を見て友禅を勧められ、15歳で友禅師三代目中川華邨先生に入門した。友禅には本友禅と無線友禅がある。前者は文様の間にある糸目の中に色を挿すだけだが、後者は糸目なしで布地に絵を描き塗り分けるので絵画により近い。中川先生は後者の系統に属したので私は染色作家への道に進んだ。日本画については1年程中川先生から指導を受け、次に四条派の画家疋田芳沼先生の教えを受けた。夜は午後11時頃まで働いた。30で独立し、独立後は1日4時間睡眠で激しく働いた。撒き糊を試してみると、黒い布地に白、桃、ねずみ色が現れ三色が交錯し微妙に響き合う。個展を開こうとしたが、贅沢品廃止令が敷かれ友禅に大打撃となった。京都機械という軍需工場に勤め、鍛造工場が新設されそこに転勤となった。戦後40で染色作家として独立し、2年程して京都工人社に加盟した。戦後は問屋「市田」に納め続けた。第2回電灯工芸展に出品し、朝日新聞賞を受賞した。日本工芸会の染色部門の鑑査員、理事、常任理事を経て現在は副理事長を務めている。