昭和56年1月13日1版1刷 昭和58年12月22日1版7刷
①東北生まれ-眼科医の子
②山形工業学校へ―兄貴文だった為本先生
③絵と友と-劉生に私淑していた画友
④石川島入社―実力主義の社風に共感
⑤田口家へ養子に-養父に互譲を説教
⑥戦後―取締役に選ばれ新規事業探し
⑦再建時代―土光社長来る
⑧IHI誕生―播磨造船所と合併
⑨社長就任―技術系偏重断ち実力主義貫く
⑩日機連会長に-機械工業の発展願う
⑪世界を歩く―ユーモアで商談まとめる
⑫大いに語ろう-主体性もって行動を
・明治39年2月3日山形県天童市生まれ。6歳の時父が亡くなり、小学校を卒業したら百姓になるつもりだったが、当時県立工業高校が3つ出来たので山形工業機械科へ進む。米沢高等工業(現在山形大学工学部)機械科に進学し、卒業後、石川島造船所に就職した。幕末に徳川斉昭が建設した造船所には全国から鍛冶屋が集まった。設計課で14年過ごした後、資材課長に回された。戦後、石川島重工業となり、部長になった2年後の22年、取締役となる。35年播磨造船所と合併し、半年間常務を務めた後、副社長となる。数年後IHIの社長となり、日本機械工業連合会の会長を引き受けさせられた。日本造船工業会会長が急逝されるとその会長も務めることに。日本は高度の追求力で達成目標を達成したが、それは半面、自主性なき追従であり、追従力のみ育てたのではないか。(昭和54年より石川島播磨重工業相談役)