1990年9月6日1版1刷
・2代目経営者とは「待ちと忍耐」が全てである。仰ぎ見られる指導者の地位を確保するためには、ひたすら勉強する以外にない。経営者としての智、リーダーとして多くの人々に接するに情を持って行い、意を決するための果断を養成するため読書に時間を費やした。
・大正2年10月7日父利八、母いちの次男として生まれる。父は明治39年4月1日大阪北区芝田町で水野兄弟商会を開業する。4月1日は今でもミズノの創立記念日。大阪帝国大学理学部に入学。卒業後は父の後継者として美津濃へいずれ入社する予定だったが、父は他人のメシを食って来いと考えていたようで、大日電線に入社した。スポーツの美津濃は戦時下にあって軍需工場に変貌し、私は昭和17年に取締役として美津濃に入社した。戦後美津濃は闇に手を染めず原料が手に入りにくい中で事業を再開し、リックサックを作り、グラブを作り、立ち直りのきっかけを摑んだ。取締役副社長に就任し労務担当となり労働法を勉強した。全社員に株式を取得させ、経営者も労働者も利害共通とした。スキーの大会を視察し、堅く軽いスキーを作るため研究を開始し、アメリカ視察後に圧縮バットを研究開発した。野球のボールには約3トンの京劇力が加わえられる。耐久性と復元力を備えたボールを高品質、低価格で販売するのは父利八の遺志である。テニスラケット、ゴルフクラブを開発製造し、東京オリンピックが成功裡に終わり、昭和44年に父は社長を辞任し会長に就任し、代わって私が社長に就任した。「守成なりがたし」を心すべきと考えた私は「社訓」を尊重し、社内機構や人事もスローテンポで刷新を図ることにした。経営のターゲットを国際化に求めた。父は昭和45年3月9日に大往生を遂げた。優れたアイデアマンで不断に勉強を怠らず生涯恭倹己を持す姿勢を崩さなかった。襟や袖を一体化したYシャツを発明したのは父である。日露戦争の勝利を記念しカッター・シャツと命名した。ユニホーム、シューズ事業に乗り出し、44年に1千億円達成を目指して10年余で達成させた。62年に会長職に退き、正人社長が就任した。
・この世に生を受けた以上、名を竹帛に垂る、ほどの気概が欲しいものである。