太平記 石崎洋司

2014年3月10日第1刷発行

 

後深草上皇と弟の亀山天皇との間に皇位継承をめぐって争いが起きた時に持明院統大覚寺統が10年ごと交代で皇位につくことが定められ、大覚寺統後醍醐天皇が倒幕を企てたために持明院統皇位を移すことを企てた鎌倉幕府(執権北条高時)が30万もの大軍を都に差し向け、六波羅探題から逃げ出したものの後醍醐天皇平等院に幽閉される。

赤坂城で指揮執る楠木正成は知略をめぐらし幕府軍を何度も何度も追い返す。兵糧攻めにあうと、自らの兜を死体に着させ、城もろとも焼き払って自害したかのように装い、本拠地の千早城に無事戻る。後醍醐天皇三種の神器を渡して光厳天皇の即位を許し隠岐に流されることも耐え忍ぶ。正成は赤坂城を奪還し、要衝の地である天王寺まで一旦進む。すると反幕府軍があちこちに立ち上がり、このため幕府は80万の大軍を引き連れて千早城に戻った正成討伐に打って出る。が、ことごとく正成の知略をめぐらした作戦により敗戦続き。たった2か月で10万に激減する。隠岐に流された後醍醐天皇に正成連戦連勝の便りが届き、隠岐を脱出し、児島忠綱が播磨の赤松軍と一緒に京を攻め込む。足利高氏後醍醐天皇に密書を送り、源氏の棟梁が立ったことで反幕府軍が一気に膨らむ。上野の新田義貞も立ち上がり幕府軍と小手先河原で激突。幕府軍が勝利を収め後一歩のところで総大将北条泰家が明日でよいと一日伸ばしにしたことがかえって仇となる。稲村ケ崎の浜が干上がって義貞軍が鎌倉に攻め入ることが出来たお陰で遂に北条亡ぶ。後醍醐天皇は正成、高氏、義貞に褒賞を与えるが、征夷大将軍には高氏ではなく、後醍醐天皇の息子の大塔宮が任じられ、赤松には褒賞がなかったために赤松が高氏に強い不満を漏らすと、高氏は后の阿野廉子と協力して大塔宮を幽閉し殺害する。後醍醐天皇は政治を武士の手から朝廷に戻し「建武の新政」を実行する。北条の残党征伐のために後醍醐天皇から高氏を尊氏に名前を改めた足利尊氏は北条軍を討伐し征夷大将軍の座と関東八カ国の支配権を手に入れるが、直後に大塔宮を殺したことを知った後醍醐天皇は新田に尊氏征伐を命じる。尊氏は帝にたてつくつもりはなかったが、家来から見せられた偽書に騙されて帝を操る新田を討つと立ち上がり、ここに公然と反旗を翻す。後醍醐天皇比叡山に籠り、京にいる尊氏討伐のため北畠顕家新田義貞楠木正成が続々と京を取り囲む。正成は偽装退却を企て、尊氏をおびき出した上、九州にまで追い落とす。尊氏が再び再起して播磨の赤松が立ち上がると、光厳上皇から新田追討の院宣が出る。正成は後醍醐天皇比叡山に一時退去して尊氏が京に上ってきた時点で正成が京の南を封鎖し北から義貞が責めて袋の鼠に追い込んで尊氏を討ち取る策を授け、一旦は後醍醐天皇諒承するも、他の公家に反対されて正面から尊氏を討てと命令する。このため覚悟を決めて正成は正行を出陣に同行させるも桜井に呼び寄せた時に正行のみ河内に帰らせる。湊川での死闘は50万対700の兵力差がありながら6時間に及ぶ。が、最後は正成も果てていく。尊氏は後醍醐天皇に密書を送り、後醍醐天皇は尊氏を信用して比叡山を降りて尊氏の指定する花山院御所に赴き三種の神器を渡す。ところが光明天皇が即位し尊氏に諮られたことを知る。が、渡した三種の神器は偽物。後醍醐天皇は奈良に移り、北畠顕家は60万で鎌倉を占領し、美濃の国で足利軍を撃破し、その後突如奈良に向かうために南下。ところが足利軍に襲われ北畠軍は大崩れする。遂に顕家も壮絶な死を遂げ、尊氏は膝を打って喜ぶ。義貞も討ち死にし、後醍醐天皇は翌年に亡くなるが、吉野には北畠顕家がお連れした後村上天皇として即位し、京の後光厳天皇と2人の天皇がいる南北朝の時代がしばらく続く。戦いのむごさ、愚かさを知って平和な世を築くためにこの記録は『太平記』と名付けられる。