2003 年 10 月 10 日発行
文学と自分
文学者の覚悟とは、かくあるものか!と、学ばざるを得なかった。
「文学者は、思想を行う人ではなく、思想を語る人だ」、覚悟については「覚悟するかしないか二つに一つという簡明な切実なものである」、「文学に志す人は、誰でも頭のなかに竜を一匹ずつ持って始めるものですが、文学者としての覚悟が定まるとは、この竜を完全に殺して了ったという自覚に他なるまいと考えます。僕の貧弱な経験から考えても、この仕事は口で言う程たやすいものではなく、どうすれば殺せるかという解り易い方法があるわけでもない。これは単に思索の上の工夫ではなく、意志や感情や感覚による工夫でもあるからです」「文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事との間に何んの区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。拙く書くとは即ち拙く考える事である」
その上で、歴史の流れというものについて、「虚心に受け納れて、その歴史のなかに己れの顔を見るというのが正しい」と述べ、大野道入道という武士の話を紹介する。
豊臣に仕えた入道が家康の家来に生け捕られて家康の前に引き出されても平然とし、火
あぶりになっても少しも動かず真っ黒こげになるが、検視が入道に近づくと死んだと思った入道が動き出し検視の脇差を抜いて検視の腹をグサリと貫いた。その途端に真っ黒な入道の身体は忽ち灰になった。諸君はお笑いになりますが、僕は、これは本当の話だと思っています。真に自由な人生とは、有りそうな話でも有りそうもない話でもないのだ。
最後に松陰の辞世の歌の一つ「呼だしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな」を紹介。「呼だしの」とは無論首斬りの呼だしである、と綴っている。