子母澤寛全集第23巻 花の兄弟 大道

昭和49年9月4日

 

大道

 子母澤寛厚田村出身。大道書房から「大道」を昭和15年5月に出版。

 土佐の執政・野中兼山は土佐南学の流れをくむ学者であったが、17歳の時から奉行職をつとめ、藩財政のたて直しのために生涯を費やす。30年間、全権を委任されて土佐藩の藩政改革に尽くす。書斎の学問にとどまることなく用水路の掘鑿(ほっさく)、新田開発などを行い、ながく領民を潤すことになる。山内三代目は積極的な兼山の政策に不満を抱いた守旧派の連中に唆されて兼山を失脚させる。その過程が詳しく書かれているのが「大道」。

(以上、冒頭の尾崎秀樹の解説による)。

 

冒頭から迫真性あふれる描写が続く。

大雨で堰堤(えんてい)工事が切れないか心配して馬を走らせた弥右衛門が見たのは泥まみれになりながら腹這いになっていた兼山だった。そして兼山は「堰堤は未来永劫切れぬ」「わしは常に正しい者への限りない天祐を信じている」「この兼山の心を、天下千万人悉くが知らなくとも、則ち天知ろし召す。兼山の味方はいつも天と思いおる」。すれすれのところで水量はぴたりと止まり雨も止んだ。

 藩主の代替わりに乗じて兼山を失脚させるために謀議を企て、新藩主がそれを見抜けず兼山は自ら執政を辞職する。子どもたち家族には「人間は如何なる場合でも休んではならぬ。どのように踏まれても叩かれても、いつでも再び飛び上る、以前よりもっともっと高く飛び上れる心の備え、身の備えがなくてはならぬ」「日本国はこれから一日一日と開けて行く、人も殖える。一人の野中兼山では足りない、百人の兼山、千人の兼山。そなたたちは、一人残らず、この父の上に立つ、この父を土台とした立派な野中兼山にならなくてはならぬのだ」「いつでも、その実行に取りかかれる学問と度胸とーいやそれよりも、もっともっと大切な、信念と誠実と、この日本国を思う忠誠の心とがなくてはならぬだ。いいか、中野へ行っても一日なりとも学問を怠っても、この父が許さぬぞ」と教える。

 そして最後に「俺は人間の大道を歩いて来た。命がけで真面目に信念の上を歩き、誠実の上を歩いて来た。俺は、今日切腹の使者が来ても、本当に笑って死ねるぞー強い、俺は強い、大道を歩いて来たものは強いッ」と誰にいうとなくそういった。