日本学事始 梅原猛

昭和60年9月25日第1刷発行

 

裏表紙「日本人とはいったい何なのか? 従来の日本文化研究の反省から、あらためて日本人の心性と文化の基層を問い直す上山春平氏との対談『日本学事始』。古代日本人の魂の深さを解き明かす『怨霊と鎮魂の思想』など、古代への独創的な視点と世界学をふまえた大胆な構想力で日本文化論に衝撃的な新風を送った七篇を収録。解説・芳賀徹

 

個人的には末尾の「聖徳太子の虚像と実像」が面白かった。

聖徳太子は冠位十二階を定め、憲法十七条を作り、遣隋使を派遣して中国文化を積極的に取り入れるなど、日本国家の基礎を作った人であると同時に日本仏教の基礎を作った人である。日本人に最も尊敬されている証拠の一つとして一万円札と5千円札は聖徳太子で、千円が伊藤博文であるから、太子の次の人を探すと太子の十分の一になってしまうほど、えらすぎる。だけで偉すぎてどこかなじめない。偉い人ほど悩んだはずなのに、太子の悩みが分からない。「聖徳太子伝暦」が信用できるかは争いがあるが、伝暦を見直すことで伝暦の本当のねらいを考え直す必要がある。三十代の太子が作った憲法十七条は単なる法律ではなく道徳、人間の理想であり、偽作であればこういうものは作らないから、太子の真作だと思う。四十代に太子が作った「三経義疏」も太子らしい文章が何か所かあり、私は真作だと思う。二十代の文章「伊予国風土記」も王者でないと言えない政治の理想を述べている。

隣国では隋が統一(太子が摂政になる4年前)するも、太子が死ぬ4年前に隋が潤びる。新羅高句麗は互いに争い、新羅と日本は犬猿の仲で、高句麗百済から文化を取り入れ、冠位十二階、十七条の憲法を作り、法興寺を作った。隋は高句麗を責めるために150万の兵隊を出すが高句麗がなかなか負けないために隋の国内崩壊をもたらし内乱が起こり、隋が滅びる。太子は人間の世界だけを相手にしてもダメで仏の世界だけが純粋でそれのみを相手にしようと考えたのではないか。そのことが太子を孤独にし、太子の子孫の孤立を招き、太子の子孫滅亡の原因になったのではないかと推察している。

日本の骨格、日本仏教の土台、天才的外交、その中での孤独な闘い。聖徳太子の姿が朧気ながら理解できたような気がする。