シュタイン便り他 ペスタロッチ 長尾十三二・福田弘・山岸雅夫訳 梅根悟・勝田守一監修 

1980年5月初版刊

 

シュタンツ便り -一友人にあてたペスタロッチの手紙-(1799)

方法 ―ペスタロッチの覚え書―(1800)

方法の本質と目的 -パリ在住の友人にあてたペスタロッチの覚え書-(1802)

方法における精神と心情(1805)

カッコ書きは執筆年であり、刊行年ではない。

 

訳者解説によると、

「シュタンツ便り」は、大要次のように要約できる。

第1に、民衆教育の可能性に対する信念である。方法をもってすれば民衆は学ぶことができ、向上することができるのであって、けっして能力が欠けているのではない、という信念である。

第2に、人間は生活の必要から、その必要をみたすための事実認識(直観)から、審議と善悪を学ぶのであって、言葉や文字からではないという、ルソー以来の生活教育論に対する確信である。ペスタロッチは子どもたちとの間に信頼関係を確立した。これが教育関係の根底となる。

第3に、道徳教育の方法は、第1に共同生活感情の喚起、普及ということであり、第2に徳の実践に習熟させることであり、第3に子どもの構成できるイメージに訴えて特についての知見を育てることである。この知見が育てば子どもは生活の直接的必要から離れた道徳的成長への確信ないし期待感のもとで無限に徳行に励むことができる。

第4に、教授原理もまた、子どもの直観できる現実の境遇と結びついた経験から出発しなくてはいけない。真理に対する感

情も、正義に対する感情もそこから育つ。この基礎が堅実であれば、教授活動も生活する。

第5に、注意力、記憶力の訓練から判断力、推理力の訓練に進むべきである。とくに記憶力の訓練は形式陶冶としてもっとも有効である。

第6に、子どもは集団の中で、学びつつ、教えあうことができる。母親にはもちろんそれが可能である。したがって教育施設と作業施設とは、家庭において結合することが可能でもあり、また必要でもある。学校はこれを範とすべきである。

 

シュタンツ便りの原文で特に重要だと思われる箇所は次の箇所だと思う。

・私はもともと、家庭教育のもっている長所を学校教育(公開教育)はお手本にしなければならないということ、それからまた、学校教育は家庭教育をお手本にすることによってのみ、人類に対してなんらかの貢献をなしうるということ、そういうことを私の実験にによって証明しようと思っていました。人間教育に必要な基本的精神についての理解を欠いたままおこなわている学校教育、家庭的環境という基本的な生活に基礎を置かない学校教育、そういうものは、私の見るところでは、われわれ人類を人為的に矮小化してゆく方法以外のなにものでもありません。いやしくもよい人間教育というものは、日々刻々、子どもの心の状態のどんな些細な変化でも、その眼や口や額から読みとる母親の眼を必要といたします。よい人間教育というものは、教育者の力が、純粋な、そして家庭環境のすみずみまで行きわたっていることによって家庭全体に活気を与えている、父親の力であることを、本質的に必要としています。こういうよい人間教育という基礎のうえに私は仕事を始めました。つまり、私の心情は子どもたちに捧げられているということ、かれらの喜びは私の喜びであるということ、そういうことを私の子どもたちは、朝早くから夜遅くまで、絶えず私の額なら読みとり、私の唇から感じとるというようでなくてはなりませんでした。人間は好んで全を求めます。子どもは善に対して好んで耳を傾けます。しかし、先生よ、子どもはあなたのために善を求めるのではありません。教師よ、子どもはあなたのために善を求めるのではありません。子どもは自分自身のために善を求めるのです。あなたは子どもを善へと導かねばなりませんが、その善は、あなたの気まぐれや、あなたの激情に左右されてはなりません。それは、その事柄の性質からみて、それ自体が善きものでなくてはなりませんし、そのうえそれは、子どもの眼に善きものとして写るのでなくてはなりません。子どもは善を求める以前に、自分が身を置いている事態や、そこでの必要から、どうしてもあなたの意思には従わざるをえないと感じていなければならないのです。子どもは彼を愛らしくするものであればなんでもそれを求めます。彼に名誉をもたらすものであればなんでもそれを求めます。彼に大きい機体を呼び起こさせるものであればなんでもそれを求めます。子どもは彼を力づけるもの、彼に自分にはそれができると言わせるもの、そういうものであれば何でもそれを求めます。しかし、この善への意思というものは、けっして言葉によって生み出されるものではありません。それは子どもに対する行き届いた配慮によって、およびこの行き届いた配慮によって子どものなかに呼び起こされるさまざまな感情や力によって、生み出されるものであります。言葉は事柄それ自体に代わることはできません。それはただはっきりとした洞察、つまりその言葉の指し示す事柄についての自覚を与えるにすぎないのです。ですから、私は、何よりも子どもからの信頼と愛着とを得ようと努めました。またどうしてもそうしなければなりませんでした。」

「私は、子どもたちの関心をよびおこしたり、あるいはまた子どもたちの情熱を刺激したりできそうな事柄については、すべて、なぜ私がそうするのか、どんなふうにそれをやるのかということを、かれらにはっきりと、わかりやすくのみこませるべく、あらゆる努力をいたしました。友よ、それは結局、本当に家庭的な教育関係のなかでみられる道徳的行為一般に立ち帰るということにほかならなかったのです。道徳的な基礎陶冶とみなされるものはすべて、一般に次のような三つの着眼点にもとづいています。つまり、純粋な感情に働きかけて道徳的な心情状態をつくり出すこと、正しいことや善いことについて、自己抑制や発奮をさせ、道徳的な行為の修練を積ませること、そして最後に、子どもたちが、自分自身やまわりの人々とともにすでにはいり込んでいる正邪や善悪の関係について、考察したり、比較したりさせることによって、道徳的な知見を育てること、以上3点であります。」