破獄 吉村昭

平成3年9月10日発行

 

青森刑務所柳町支所に拘留された佐久間清太郎は、かつて看守の行動を観察し、看守が用を足しにいった午前零時50分から1時までの間に外壁を乗り越えて脱走した。共同墓地で空腹のため疲れ切っていた佐久間は発見・逮捕された。

昭和15年、小菅刑務所に収監された佐久間清太郎は独居房で日々を過ごしていたが、秋田刑務所に移された。独居房から鎮静房に移された佐久間は、太平洋戦争勃発の翌年、天井の明り窓を外して独房の天窓から脱出した。天井までの高さは3.2メートルで外塀は3.6メートル強の高さがあり逃走不能のはずだった。布団をかぶって寝るのを黙認していたことで脱走を容易にしてしまっていた。警察は佐久間の妻の家を張り込んでいたが、なかなか姿を現さないために張り込みを解除した翌日に妻の前に姿を現した。相当な月日が経過した後、佐久間は、戒護主任の看守長浦田進の家に自首する。東京拘置所に収容された佐久間に対する出張検事の取調べが行われ、脱獄方法について訊問されると、守宮を考えてくださればいいですよ、とだけ答える。動機については、看守が囚人を人間扱いしないので看守を窮地に陥れるために脱獄したという。浦田の下に自首したのは人間扱いしてくれたからだとも。行刑局により調査が行われたが佐久間の弁解には矛盾があると判定された。佐久間の移送先は網走刑務所に決定し、網走へと護送された。佐久間だけ赤い獄衣をつけられ、常時、専任の看守が2人つけられた。ある時、手錠を外していたことが発覚し全身を隈なく検査され肛門の中や舌の下に金属板が見つかった。再び佐久間が手錠を外していた姿が確認された。佐久間は手錠を針金一本だけでいとも簡単に外すことが出来る能力を持っていた。通常の手錠では役に立たないので特注の手錠、足錠が製作された。後ろ手で手錠をはめ、足錠がはめられた。看守長の中から後ろ手錠は犬のように食物を口にするのであまりに惨めだという声があがり、前手錠に改められた。柔順な態度を取った佐久間に対し足錠が外された。獄衣の袖の中に一本の針金が隠されているのが発見された。手錠に鍵穴はなく逃走目的ではなく化膿した箇所がかゆくて針金を口にくわえて掻くためだったとする弁解は信用された。佐久間は天窓を破って再び逃走した。刑務所の周囲には高さ4.5メートル強の煉瓦塀があり、乗り越えられるとは思えなかったが、丸太を這い上がって逃げることに成功する。手錠のナットは毎日味噌汁をたらし酸化させ腐食されて引き抜くことに成功していた。視察窓の取り外しもネジに腐食が見られた。戦争が終わり、滝川署員に佐久間は逮捕された。常呂の廃坑の中に潜んでいたという。札幌刑務所に移送され、今度は4人の看守が2時間交代で常時監視した。殺人事件で死刑判決を受け、それを不服として控訴していた。オックスフォード大尉が佐久間だけ大通支所に移すと命じるが、後に再び本所に戻される。今度は床を鋸ででも切った痕があり、床下には2尺近くの空間があった。翌日の朝刊に4度目の脱獄の記事が載る。しばらくして琴似警察管内で佐久間は逮捕された。大尉は今度逃亡の気配を見せたら射殺しろという。当初は札幌刑務所の特別房に収監されたが、最も堅固な鉄筋コンクリートの府中刑務所に移送された。府中刑務所の鈴江所長は賭けに出た。手錠と足錠を切って佐久間に温情を掛けた。更に佐久間に仕事を与えた。花にも興味を示した佐久間を見て、鈴江所長は佐久間に守宮のように壁を這い上がるのをやってみせてくれないかというと、佐久間は一方の壁に両足の裏を押し付け、両掌を他方の壁に密着させて交互にずり上げて体を上方にあげて行った。そして天井に達し力をこめてふんばり片手を電球に伸ばし、そして静かに壁を降りてきた。身体的能力が尋常でないことを知り、彼と心を通わせるしか脱獄を防ぐ道はないと判断し、家族と連絡を取らせて気持ちを安定させることを考えた。家族の協力が得られぬと分かると、今度は鳥を飼わせることにしたが、佐久間は鳥籠から逃がせてやってくれという。ある時、鈴江所長は出張先に府中刑務所から緊急電話が入った。佐久間が逃亡か?、いや、そうではないと思いつつ電話口に出ると、アメリカの重要な高官が視察に来るので呼び戻されただけだった。鈴江所長は一般囚人と同じ扱いとし、しかも仮釈放の日が近い者に限られている炊場の精米所で働くよう指示を出した。佐久間は明るい笑顔で一生懸命仕事に取り組んだ。もはや佐久間が逃げることはないだろうと鈴江所長は思う。

鈴江所長は転勤となったが、後任の本田所長も従来の砲身を受け継ぎ、佐久間は昭和36年に54歳で仮出所した。鈴江は退官後公証人を経て弁護士になった。佐久間は毎年鈴江の家に姿を現した。その後山谷で働き、鈴江の家を訪れることは続け、71歳で亡くなった。

 

実在の人物、白鳥由栄(よしえ)の4度にわたる脱獄物語を、吉村昭さんがいつもの筆致で描写する、見事な作品です。