生命をみつめる 杉原領事とレーロチカのパン 早乙女勝元編

1998年5月22日初版

 

目次

プロローグ

1 鎌倉に杉原夫人を訪ねる

2 ビリニュスに着いた

3 カウナスの収容所にて

4 私は20歳の女子学生だった

5 旧レニングラードの悲劇の少女

6 レーロチカの形見のパン

7 「バラが咲いた」の大合唱で

あとがき

 

・日本の外交官杉原千畝は、当時、ポーランドと国境を接していたリトアニア領事代理だった。ナチの魔手を逃れて、第三国へ脱出するための通過ビザ(旅券の査証)を、と求めてきたユダヤ人たちに対し、杉原氏は外務省の指示に背いて、大量のビザを発給しつづけた。

・1940年7月27日朝、日本領事館前にポーランドから逃げてきたユダヤ人が詰めかけた。ヨーロッパじゅう、どこにでもドイツ軍がいて、残されたところは、ここリトアニアしかない。脱出ルートはリトアニアからソ連、日本経由で、アメリカへ渡る方法しかなかった。それで日本領事館から通過ビザをもらおうと、詰めかけてきた。しかし事は簡単ではなかった。当時日本はすでにドイツと防共協定を結んでいて、日本領事館がユダヤ人にビザを出したとなれば、敵対行為となるからだった。本省に電報を打つが、答えはノーだった。独断でビザを出せば、ドイツ軍に捕まるかもしれないし、外務省を辞めさせられるかもしれなかった。それでもビザを発給すると伝え、皆が大喜びし、杉原は一ヵ月近く、朝から晩まで次から次へとビザを書き続けた。。とうとう退去命令がきて、ベルリンへ行った。

・一日300枚くらいのペースだったが、途中で手間を省いて番号づけも止めた。全体では2000枚を超えた。家族で一枚、子供の分はいらないので、家族3人としても計6000人が救われた。

・10年ぶりに夫妻は祖国の土を踏んだが、痛恨事が相次いだ。ユダヤ人に対するビザ発給問題で、千畝は外務省を追われ、カウナス生まれの三男が病死、妻の実妹も死んだ。

・著者はこの後リトアニアからサンクトペテルブルグへと移動して取材を続けている。