昭和59年1月10日1版1刷
①青森生まれ
②父
③母
④小学校時代
⑤青森大火
⑥祖母と私
⑦鍛冶仕事
⑧裁判所の給士に
⑨絵仲間たち
⑩ゴッホ
⑪同人展
⑫門前払い
⑬アルバイト
⑭帝展入選
⑮帰郷
⑯板画入門
⑰「大和し美し」
⑱ラーメンと花
⑲河井先生の京都
⑳恩人たち
㉑「善知鳥」
㉒大原父子
㉓「釈迦十代弟子」
㉔疎開
㉕再び東京へ
㉖米国講演旅行
㉗ゴッホの墓
㉘昭和45年ごろ
㉙大団円
・明治36年9月5日青森市生まれ。小学校を卒業すると次兄と組んで鍛冶の仕事をした。鍛冶屋の仕事の後は裁判所の弁護士控所の給士をした。絵の仲間達と青光社をつくり、展覧会に出品すると、知事の竹内俊吉氏が高く評価してくださった。21歳で上京し東京教材出版社に1年半ほどいた時に白日会の展覧会に初入選した。5回目の帝展応募でダメなら青森に帰るつもりだったが、入選を実家に報告できた。日本創作版画協会の展覧会を見て版画をやってみたくなり版画家になる決意をした。板が展を春陽会に出すと4点入選した。国画会に出した星座の花嫁は全部入選。同郷の詩人福祉幸次郎先生と行き来し、佐藤一英氏の長編詩を版画にし国画会に出品した際、浜田庄司先生と出会い、柳宗悦先生から褒められ、高額で買ってもらった。河井寛次郎先生が家を訪ね帝展で落選した作品を見られた。京都に一緒に同行させてもらい、禅書『碧巌録』を渡されて読むように言われたが、重苦しい気持ちになり1週間程でお返しした。倉敷の大原孫三郎、総一郎様ご父子と初めてお会いしたのは河井先生と同道した時で作曲家では誰が好きかと尋ねられベートーベンと答えると、一晩中シンフォニーを聞かせてくれた。ベートーベンのザッザッザというリズムは私の欲する版画の切込みに通じるものだと感動し、翌年、釈迦十代弟子をザッザッザッと掘り進めた。国展に出品し佐分賞を受け、サンパウロ国際美術館で最高賞、世界版画最優秀賞を受けた。岡本かの子の詩を題材に「女人観世音」を掘り、国際版画展で最高賞を得た。日本版画が初めて世界から受けた賞だった。高橋禎二郎氏、五島慶太氏との縁が生まれ、東急での展覧会が40回になった。青森から第1回県文化賞、県文化褒賞、第1回佐藤尚義各題郷士大賞を重ね受けた。青森の泣きも笑いも切なさも憂いも、みんな大好きなものです。ナントモ言えない、言い切れない、湧然没然がある。(昭和50年9月13日死去)