昭和62年3月13日1版1刷
①事業の原点
②生家・山田屋旅館
③学生時代
④山田屋旅館再興
⑤軍隊での出会い
⑥「敵ハ米英蘭ナリ」
⑦戦闘力ない暁部隊
⑧奇跡の生還
⑨佐治タイル再建
⑩大衆は信用できる
⑪日本信販創立
⑫勤続3年、妻子有り
⑬割賦規制の動き
⑭無理解な流通部会
⑮クーポン自粛
⑯いわれなき規制
⑰小説『風雲に乗る』
⑱山河を越えて
⑲JCB設立
⑳本社ビル建設
㉑FNCBと合併
㉒予備株券流用事件
㉓選別融資規制
㉔寸前暗黒
㉕創立25周年
㉖親しき友
㉗世界宗教人会議
㉙星になった家内
㉚信用情報センター
・明治40年4月22日名古屋生まれ。父は名古屋に唯一の木造三階建の大きな旅館を経営して羽振りが良かったが、火災で旅館を失い、失意の下で亡くなる。東海中学1年の終わりに高輪中学に編入し慶応義塾後頭部に進む。卒業後は就職せず、父の唯一の財産だった名古屋の土地を売り新旅館建設の資金とし、下呂に母の名前を取って山田モト旅館を建設した。戦友は一人残らず戦死した。戦後、信用という無形の財産を元に信用販売してもいいのではないかと考え、日本百貨サービス株式会社をつくった。東京に進出し、2年間、百貨店に通ったが、どこも加盟してくれなかった。最後と思って高島屋に行き、営業部長だった八嶋進作さんと東京支店長の薬師川秀三郎さんが即決してくれた。白木屋、松屋、京浜百貨店が加盟してくれ、東京文京区に日本信用販売株式会社を創立した。26年度は1億5千万円だった売上が28年度には10億円を超え31年度には25億円になった。もっとも無理解な批判、反対運動も起こり、33年には頂点に達した。遂に通産省は百貨店業者の割賦販売の自粛についてという通達を出す。36年、三和銀行と日本信販の折版出資で日本クレジットビューロー(JCB)を設立。39年に9階建ての日本信販本社ビルを建てる。48年に消費者ローン規制を大蔵省が打ち出し、謄写は再び存亡の危機に立たされた。信販業務が単なる金融業務でなく信用調査機関だと思い付いたことでわが国初の外債発行が実行でき難局を突破した。59年、信用情報センターが株式会社として設立された。消費者信用における信用供与残高は58年には住宅ローンを含め60兆円を超えた。
・戦前に聾唖者の採用のため「八光会」を誕生させ、終戦後は財団法人組織にしたが、身体障害者愛護事業に尽瘁したことでヘレンケラーから23年に表彰を受けた。信販事業の原点は人々のハンディを少なくしい貧富の差を縮めるためにあることを知ってもらいたい。(昭和61年6月より日本信販名誉会長)