昭和59年7月2日1版1刷 昭和62年3月31日1版2刷
①生いたち
②一高生活と新渡戸校長
③東大への期待と幻滅
④思想界の台風「森戸事件」
⑤大原社研の誕生
⑥ドイツ滞在
⑦大原社研における私の研究
⑧大阪労働学校その他
⑨政治舞台への初登場
⑩社会党代議士として
⑪文部大臣として
⑫国民政党か階級政党かー森戸・稲村論争
⑬広大学長に迎えられる
⑭中教審の「第三の教育改革」
⑮労働科学研究所の新課題
⑯「生涯教育」の推進
⑰レクリエーションとしての釣り
⑱教育における国際協力
⑲百まで働こう
・明治21年12月23日広島県福山市生まれ。父は福山藩士の二男で剣士として生きるしかなく貧乏士族の典型だった。私を立派に育て落ちぶれた森戸家を復興しようという我が家の雰囲気から懸命に勉強した。明治40年に一高に入学した翌年、新渡戸稲造校長を迎え校風が刷新された。先生の講義はダンテの「神曲」、カーライルの「衣裳哲学」、ゲーテの「ファウスト」、ミルトンの「失楽園」を紹介するもので深い感動を与えた。徳富蘆花さんを呼び「青年よ謀叛せよ」との演説は大騒動になり校長の辞表提出に至った。東京帝国大学法科大学経済学科に入り、社会科学あるいは社会問題を研究課題に選びそのまま大学に残り、助手、助教授になった。人類の究極の理想が無政府共産制にあることを学びその研究を進め「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したが、休職・起訴され、安寧秩序を紊乱した罪で禁固2か月の判決が下った。検事が控訴し朝憲紊乱適用となり金庫3か月と重くなる。出獄後、大阪の大原社会問題研究所の研究員になり、「日本労働年鑑」を毎年発行した。ドイツ留学を終えた後、「ドイツ社会党合同問題と其背景」を発表し、マルクス主義を原典に即して基礎から検討する作業に没頭した。労働婦人の実情調査、労働者教育、大学顛落論に取り組む。戦後、「日本文化人連盟」に参加し、社会党の入党に踏み切った。広島から担ぎ出され、建設的無血革命を提唱し、共産党とは全面対立した。昭和22年の総選挙で社会党は第一党に躍進し社会党内閣が誕生。文部大臣を引き受け、六三制を実施し、新制大学制度が発足した。広島大学の学長に請われ議員を辞職し故郷に戻る。平和研究所の設立を目指したが予算が取れず途中であきらめたが、近年、平和科学研究所ができ夢が実った。東京に戻り中央教育審議会の会長に就任。期待される人間像を「個人として」「家庭人として」「社会人として」「国民として」の4つに分け、4年かけ答申を出し「第三の教育改革」を掲げた。日本ユネスコ国内委員会の名誉会長、日米文化教育会議の日本側の初代委員長を務める。(昭和59年5月28日死去)