2011年12月10日発行
23歳の小督は17歳の徳川秀忠に嫁いだ。小督は3度目の結婚、秀忠は初婚だったが、名門の花嫁を得て秀忠に箔がついたと見る者が大半だった。小督は秀頼の母茶々の妹であり、秀頼の義姉であるからだ。秀勝に嫁いだ時とは比べ物にならないほど婚儀は壮麗で秀吉は得意満面だった。初の夫の京極高次も大津城主6万石となった。小督は秀忠に好感を抱き、早く江戸に行きたかった。名も小督から江に変えた。江は娘を立て続けに産んだ。幼き千姫は秀頼と娶わせることになった。秀吉が享年62歳で逝去する。2人目の子々姫も、3人目の勝姫も江戸城で産んだ。関ヶ原の戦いで三成が家康に敗れ、江は徳川が秀頼を守り立ててゆくものと信じていた。江は豊臣と徳川の架け橋になり戦のない世がくるかもしれないと期待した。が茶々から年賀の品を贈っても礼状が来なかった。秀忠が家康に命じられて仕えるようになった側仕えの女子を孕ませ江は腹を立てた。幼き子々姫は珠姫と名を変え、前田家当主利長の弟で養嫡子となった利常に輿入れした。家康は二条城の築城を始め征夷大将軍の宣旨を二条城で行った。4人目の初姫は姉初と京極家の養子に出した。江と秀忠の第五子は待望の男児だった。秀忠が将軍を継ぐことになり、江に不安がよぎる。竹千代の乳母お福は江にとり目障りな存在となっていく。2人目の男児国松が生まれたことで鬱憤を晴らした。五女松姫を産むと、入内させられた。相手は政仁親王だった。初の夫京極高次が死去し、初は落飾し常高院となった。江は竹千代より国松を世子にと秀忠に要望するが、家康より家の乱れと忠告され、目が覚めた。大阪夏の陣で一方的な勝利を収めた家康は茶々母子に切腹を命じた。江は千姫を江戸に引き取った。千姫は本多忠政の嫡男・忠刻へ嫁ぎたいと願い出たことから江はそれを叶えた。和子(和姫)は後水尾天皇の女御となった。