はじめに
「善の研究」の出現によって、西洋哲学に引けをとることのない哲学的探究の場が日本に開かれた(8p)。
第1回 生きることの「問い」
第4編「宗教」→第3編「善」→第2編「実在」→第1編「純粋経験」の順で読み解いてみたい(28p)。
第4編の「付録」
「知と愛」という随想 最初に読むべき。
「知」のちからだけに頼るとき人は、自分が万能であるかのように思い込む。そうした迷いから私たちを救い出してくれるのが「愛」のちから(32~33p)。
「知と愛」は西田にとって同じもので、二つは別な側面を持っているだけ。それを近代人は分けて考えてしまった。私たちは「知と愛」をもう一度、一緒にしなければならない。それを一つにすることによって見えてくるものを世に告げることが哲学の役割だというのです(36p)。
花は自然の象徴です。自然は私たちにいつも呼び掛けてくれる。しかし、「知る」ことしか知らない者は、その呼び声に応えられない。しかしその「声」に応えさえすれば、そこに循環が生まれる。これが西田のいう「一致」です。
第2回 「善」とは何か
学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。急いで書物よむべからず。(明治35年2月24日『西田幾多郎全集』17巻、岩波書店)
「宗教」は「大いなるはたらき」。「大いなる」ものを西田は「神」と書いています。
西田は「神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う」(第4編 宗教 第2章 宗教の本質)と書いています。
善とは自己の発展完成self-realizationである(第3編 善 第9章 善(活動説))。
自己が円満なる発達を遂げること。
「行為」は、つねに「意識」を伴わなくてはならない、と西田はいいます。西田のいう「意識」とは、表層意識と深層意識の両方を含んだもののことです。その両方が一つになり、「行為」されるとき、「善」への道が開かれるというのです(64p)。
西田における「善」の奥には「利他」という言葉が潜んでいます(65p)。
第3回 「純粋経験」と「実在」
西田哲学の「骨」(こつ)をつかむ
偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを摑まねばならない
そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大いなる彫刻家に鑿の骨、大いなる画家には筆の骨があると同様である。骨のないような思想家の書は読むに足らない(「読書」『「続思索と体験」以後』岩波文庫)
「実在」とは「現実そのままのものでなければならない」
「純粋経験」と「直接経験」は同義であり、それは「自己の意識状態を直下に経験」することである。
「純粋経験」を妨げるものとして①「思想」②「思慮分別」③「判断」の3つがある。
第4回 「生」と「死」を超えて
随筆と詩人的想像力
短歌 言葉にならないおもい
最終論文「場所的論理と宗教的世界観」
「絶対矛盾的自己同一」絶対的に矛盾するものが、不可分な形で一つになっているありよう、これが「絶対矛盾的自己同一」です。西田哲学の代名詞といってよい言葉。
過去は過ぎ行き、未来は未だ来ない。これらが現在と相反することによって「今」がある。しかし、人間の生死を問題とするとき、この矛盾的関係を超えた過去・現在・未来が一つになる「絶対矛盾的自己同一」の世界、「唯一なる」世界を経験するというのである。
思考力を高めたければ「あたま」を鍛えればよいのでしょう。しかし思索を深めたければ「こころ」を動かさなくてはなりません。もし、「思惟」によって世界を感じたいなら「いのち」の地平に立ち、他者と己れが分かちがたい関係にあることに目覚めなければなりません。このことを確かに認識し、語ること、それが哲学者西田幾多郎の始点であり、終着点だったと思うのです(121p)。
昔、「善の研究」を紐解いたことがある。しかし、全くあたまに入ってこなかった。思惟どころか、思索も、さらに思考すらできなかった。
「善の研究」を、著者の力量で、初心者にとても分かりやすく伝えてくれている入門書だろうと思った。今までこの入門書すら手ごわいと思っていたが、それを感じさせない、とても面白い本です。