昭和44年11月25日初版 昭和57年8月10日13刷
序曲
第1部 前進!
逆境の日々
「ことにエジプトとインドに関する研究が精密であった」「当時の彼の手記で後世をおどろかすのは、この二十歳未満の青年が、分析力と総合力とを異常にもっていたことである。分析的頭脳の人は小局にとらわれやすく、総合的頭脳の人は放漫空粗にながれやすい。しかし偉大なる人傑は常に総合的頭脳の人であった」「英国史の研究はもっとも細密をきわめ、ことに1688年の英国の名誉革命の思想的背景および物質的原因については徹底したる研究をしていた。これが彼が後年フランス革命の大波に賀して、着々として挙措のそのよろしきにかない、ついに仏国の王者の地位にのぼった理由である」
明暗交錯
蛟竜池を出づ
「ナポレオンの当時の手記に『精神は剣よりも強し』という句がある。いな、彼の一生は武将の一生でなくして、宣伝的天才の一生であったのだ。彼はやむをえず剣を抜いた。しかし彼ほど戦争を避けて、外交駆け引きと宣伝とによって政治をおこなわんとしたものは少ない。彼は非凡な民衆運動家であった」
「彼はアルプスの峰を見上げた。『あの雪は、ローマ帝国の昔から、じっとこの半島を見おろしているのだ。シーザーも、ポンペイも、ブルータスも、ホーレースも、ダンテも、みなあの雪は知っているはずだ。まだまだおれは、そこまで行きついていない。そうだ。前進!前進!英雄のゆく道はただ一本だ。まっすぐ前へ前へ!運命の星を信じて・・・』
エジプト行
政権奪取
旭日昇天
「ナポレオンは社会に秩序を与える力としての宗教を重んじた。ゆえに彼はイタリア遠征のさいもローマ法王はいじめなかった。そうして統領となると、百方力をつくしてローマ法王庁と交渉し、多年の懸案を解決して平和条約を結んだ。それから彼は、統領となって2週間目に仏全国にたいし税務署設置の案をあてて租税の公平を樹立し、2か月後にフランス銀行を設立して底知れずに下落していた貨幣価値を安定し、国債償還の制を設け
株式取次所を改善し、失業者救済案をたてて土木工事をおこした。彼は教育制度を改善した。1799年にはパリには小学校の数わずかに24、生徒1千人というみじめな状態であったのが、彼の就任3年目には全仏に小学校4500、中学75、高級中学45ができている。彼は民心の抂屈せずして能力を発揮したことを目標としたゆえに、金銭以外に人間の才能と功績とを表彰するの道を開いて、名誉心をもって社会内の一要素とすることに着手した。それが仏国に今日も存在している、レジオン・ドヌール勲章の制である」
第2部 王冠
王座に登る
「英国の熱情詩人バイロンは、英国が対仏宣戦の張本人たるにかかわらず、その霊筆を呵して、この英雄児を賛美した。それは英国伝統社会にたいする反逆児であったバイロンは、欧州大陸の伝統に反逆して勇ましく戦っている英雄児に全人の共鳴を感じたのだ。しかしナポレオンが皇帝となり、貴族をもうけ、しだいに旧勢力旧制度への妥協をはじめると、バイロンはあざむかれたりとして痛憤した。楽界のベートーベンもまた、ナポレオンの崇拝者であった。彼はその苦心彫琢してつくった一曲をナポレオンにささげんとしたとき、卒如彼の皇帝たるをきき、曲譜を寸裂して憤激した。女流文豪スタール夫人も皇帝となったのちのナポレオンに失望した。全欧の自由主義者の同情が、かくして一刻々々彼を去りつつあった。けれども、それよりもっと大きい陥穽は、成功のともなう本人心内の変化だ。慢心と油断だ呵彼は八面六臂ゆくとして可ならざるなき自己の力量をしだいに過信して、欧州の天地一人といえども自己にならぶ者なきに慢心した。そうして前後の用意に以前のごとき周到味が欠けてくると、やることに無理がでてきた」
天馬空を行く
栄華の絶頂
天才の真価発露
「『わが兵五万。これにナポレオンの名を合算せよ。総計15!』」
(エルバに45歳で帰ったナポレオンの下には母レティーツィア、妹ポーリーン、かつての恋人マリー・ワレウスカが訪れた)
(エルバから更にもっと遠い島に移されるか殺されるかという状況になるとナポレオンは再びフランスに戻る決意をし、母にそのことを告げると)「いらっしゃい!わが子よ!そうしてあなたの運命のままにおやりなさい。今度こそはさすがのあなたも失敗するでしょう。そうして死ぬ。しかし死ななければならぬのが人間の運命、しかしこんなつまらぬ小島で安閑と死ぬことをお許しになさらぬ神さまは、きっと毒であなたをお殺しにはなりますまい。勇ましく剣を持って死なせてくれるでありましょう。あなたがこの島におられないのは、私は悲しい。しかしいままであれほどの戦いでお殺しにならなかった神さまは、もう一度あなたをお守りくださいましょう」という。
百日政府
(皇帝として迎い入れられたナポレオンは12万5000の兵士を率いてワーテルローの決戦に出陣。しかしかつての名将の多くが去っていない。それでも6月15日ナポレオンは18時間馬に乗り続けて戦った。プロシャ英両軍を分離せしめたと思ったナポレオンは疲労のため後方に退いて休憩した)「そこに彼の大きい誤算があった。往年のナポレオンならば『前進!』と疾呼してプロシャ軍の全滅するまで追撃するはずである。しかるに7,8分の勝利に満足して、なにゆえに彼は軍をとどめかつ自分も休憩したか。それは彼の慢心と油断であった。彼はブリュッヘルとウェリントンをみくびっていたのだ」「同じ戦法でいつでも勝てると思うのは大きい誤算ではないか」「なぜ彼はそのように考え違いしたのか。それは彼が疲れてきたのだ・・彼の不規則なかつ過度の勤勉が、鉄の如き彼の身体を消耗しつつあったのだ。それに彼はほんとうの休息をしていない。人間のほんとうの休息は、宗教と家庭と芸術だ」
(フーシェより退位文を渡されたナポレオンはパリを離れ、かつての仇敵英国に渡ることを決意する。ところが英国王はセントヘレナの孤島に流すと記した手紙を渡し、ナポレオンは最後の獅子吼を放つ)
第3部 巖上の悲劇
(セントヘレナで獄史ロウがボナパーテ将軍と宛名した手紙を見たナポレオンは囚人ではなくフランス皇帝として振る舞うと、ロウはナポレオンに対し迫害・嫌がらせを繰り返した。ナポレオンは歴史を書き、2700巻の書を集め疾風のごとく読書に励んだ)
「彼の一生の戦いは、平民の希望を代表して世界の特権階級を打破するということであったのだ。平民の情熱の作り上げた革命フランスの民衆的怒涛に駕して、全欧州の正当王族と世襲貴族と戦うということが、彼の一生の意義であったのだ。その民衆的運動が蹉跌して、正統王族が勝ったのだ。世襲貴族が勝ったのだ。上帝ゼウスにかわる全世界の特権階級が、民衆革命の代表者である危険人物ナポレオンを、鉄鎖につないでセントヘレナの巌の上にさらしているのだ」「その迫害からのがれることは、困難の逃避だ!それは英雄的態度ではい。あくまでも自分の精神力の尊厳を守って、英国の伝統貴族の暴虐に対抗することが、革命欧州の民衆にたいする自分の義務だ。そういう感じが彼の胸中に厳存していた」
「彼は愛児に与えた治国要道遺言のなかに説いている。『わが児は、新思想の人たり、かつ余をしていたるところに勝利を得せしめる大目的の把握者たることを心がけよ。・・・すなわち、欧州を不可分離の連邦の連鎖によって統一することなり』と。また彼はその侍臣に残した口授文のなかで、この点を敷衍してこういっている。『余の声名は40回の戦勝に基礎するのではない・・永久に消滅しないものは、わが輩のつくった法典だ。わが輩の内閣の会議議事録だ。わが輩と大臣とのあいだにとりかわした書簡だ。わが輩のナポレオン法典は簡単明瞭であるがゆえに、古今のどの法典よりも多くの効果をおよぼしている。余のつくりたる学校と教授法とが新しき国民をつくりつつある。わが輩の統治下において犯罪の数は減少した。しかるに英国においては、犯罪が増加しているのではないか。わが輩の目的としたるところは、ヨーロッパ合同をつうり、ヨーロッパ法典とヨーロッパ法廷をつくることであったのだ。そうすれば全ヨーロッパがただ一民族となったであろう』と」
第4部 ナポレオン論
人物
1天才の魅力 2三大特色①分析的能力②総合的能力③非凡な実行力(渾身の勇気)前身!
3みがかれざる璣(ルソ-,ボルテール,ゲ-テ)
人間
1鉄のごとき肉体 2現実に徹底 3天才とは勉強ということだ 4無限の想像力
508頁もの長編だったが、読み応えのある、良書の一冊だった。ナポレオンに対する印象はガラリと変わった。やはりもっともっと多くのことを勉強せねばならぬ。不知のままでいることは恥であると肝に銘じて。