春雷 葉室麟

平成29年9月20日初版第1刷発行

 

裏表紙「〈鬼隼人〉許すまじ-怨嗟渦巻く豊後・羽根藩。新参の多聞隼人が“覚悟”を秘し、藩主・三浦兼清を名君と成すため、苛烈な改革を断行していた。そんな中、一揆を招きかねない黒菱沼干拓の命を、家老就任を条件に隼人は受諾。大庄屋の〈人食い〉七右衛門、学者の〈大蛇〉臥雲を招集、難工事に着手する。だが城中では、反隼人派の策謀が…。筆者畢生の羽根藩シリーズ第三弾!」

 

羽根藩で仕官した多聞隼人は、周囲から鬼隼人と呼ばれるごとく、藩財政立て直しのために命がけで働き続ける。人から鬼と呼ばれ周囲から理解を得られず、悪名を被っても何故にそこまで自らの信念を貫いて藩政のために働き通そうとするのか。隼人が鬼と呼ばれるような人物でないことを理解するのは、わずかに定期的に金子を届けてもらい藩の孤児を引き取って育てた欅屋敷に住む欅と、隼人の身の回りの世話を商人の夫から言いつけられたおりうの女2人しかいない。そんな中で黒菱沼干拓のために隼人に協力をし始めたのが大庄屋の七右衛門と臥雲だが、この2人も周囲からの嫌われ者でいわくつきの人物。だが隼人の心の奥底にあるものを理解し、自らの心の奥底を理解する隼人とは心の奥底でしっかりと結びついている。果たして世から鬼と呼ばれている人物が本当に悪なのか。善悪の判断は、表面的な行動から判断してしまうと、物事の本質をかえって誤ってしまう危うさがあることを強烈に教えてくれる。言い方を変えれば、自らの信念を貫き、世の為に働こうとするのであれば、周囲からどのような評価をされるかは一向に気にしない、むしろ世の評価などという次元で生きている限り、大願を成就することなど到底できない、ということを小説を通して読者に訴えかけようとしているように思う。

 

15年前にお国入りした羽根藩主の三浦兼清が果たして名君なのか否かを見極めようとして隼人は仕官した後、御勝手方総元締に任じられ、藩主を名君とするために、自らは鬼隼人と呼ばれて汚名を被ってでも、藩民に痛みを伴う財政改革を断行し、藩の再建を目指していく。これまでも何度も挑戦しても頓挫した黒菱沼干拓を実現することが隼人の最大の仕事となったが、場合によって農民一揆が起きかねない難題であったため、隼人はこの仕事を引き受けるに当たり、家老に就任させてもらうことを条件に受諾。ところが反隼人派の策謀により、隼人の足を引っ張るために農民一揆が画策され、実際に欅屋敷や大庄屋の店が普請小屋が農民一揆のターゲットとされ、七右衛門は一揆の首謀者に切り殺され店を焼かれたほか、普請小屋も焼かれてしまった。農民に捕まった臥雲を助けに行くべく多聞が乗り込み、七右衛門を切り殺した首謀者を手打ちにし、秋物成の銀納を廃止することを約束して農民一揆を収束させた隼人だが、反隼人派の策謀に乗った藩主は隼人に切腹を命じる。ここで遂に藩主と対面した多聞は自分が誰なのか覚えているかと藩主に問うというクライマックスを迎える。そして15年前に馬に乗ってお国入りした藩主の馬が暴れ出し、馬に蹴られて隼人の一人娘の弥々は亡くなり、身重の妻だった楓は流産する。隼人からこの時の出来事が心から消えることはなく、名君か否かを見定めるために仕官の道を選び、妻の楓が泣いて止めるのを聞かず、楓と離縁する。そして遂に藩主の前で自らの悲運を直接に伝え、忘れていたのではなく娘が死んだことを知らなかったとしても改めて人として謝るよう迫る。これに対して追って沙汰すると述べた藩主が取った行動は、結局、隼人に対して切腹せよとの命を下す。自らを名君とするためには結局自らは何もせず他人のお膳立てした神輿に乗るだけで、せいぜい著名な学者を呼んで改革をしている振りをするくらいしか能のない藩主は、所詮は暗君でしかないと決断して、隼人は切腹せよとの命に背き、最後は討ち取られて死んでいく。後に干拓事業は再開されるが、鬼隼人と呼ばれていた声はいつしか消えてなくなり、“世直し様”と呼ぶ百姓も出るようになる。隼人の墓参りに来たおりうは欅に「多聞様は、世のひとを幸せにしたいと願って鬼になられたのです」「世のひとのために……。その思いで多聞様は生きられた方なのです」と語る。心の奥底ではそのことを理解していた欅は目に涙を浮かべてうなずく。藩から離れて別の土地で夫と暮らしたいと思っていても自らの信念を貫いた隼人を忍んで。「蒼穹を、春雷がふるあわせている」で幕が下りる。

 

本書の隼人の名言はいくつもあるが、とりわけ下記を引用しておきたい。

・世のためひとのために尽くした者は、それだけで満足するしかない。この世で、ひとに褒め・られ栄耀栄華を誇るのは、さようなものを欲してあがいた者だけだ。ひとに褒められるよりも尽くすことを選んだ者には、何も回ってこぬ。望んでおらぬものは手に入らぬことだ50p

・わたしは、悪人とはおのれで何ひとつなさず、何も作らず、ひとの悪しきことを謗り、自らを正しいとする者のことだと思っている。167p

 

なかなか痺れる生き方を貫いた多聞隼人です。己の人生をこの先どう生きるべきかを改めて考えさせられました。