中山幸市(太平住宅社長) 私の履歴書 経済人10

昭和55年10月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

①身についた“生きる才覚”

②進学を断念し炭屋に奉公

③専検にパスし関大へ入学

④応援弁士で学費を稼ぐ

⑤電話と住宅を無尽形式で

⑥丙午を恩に着せ“関白”の三十余年

⑦「日本電話建物」を追い出される

進駐軍相手にみやげもの屋を開店

⑨資金不足をアイデアで補う

⑩独特の月賦住宅事業

⑪相互扶助の精神で「太平火災」設立

⑫多角経営-「太平グループ」確立

 

・明治33年12月5日岡山生まれ。父は貧乏百姓の三男。父は養家で事業を起こしたが、相場に失敗し財産を失い、母を失くした。子どもの頃からネズミ捕り、セミ採り、魚釣りで小遣い稼ぎを覚えた。高等小学校を出て炭屋に奉公したが、学校に行きたくなり、広告を見て職工待遇の事務員(筆生)となり、夜学に通い始めた。専検に合格し、関西大学専門部商業科に入学した。卒業後は神戸高等商船学校(現在の神戸商船大学)の先生となり、商業補習学校(夜学)に雇って欲しいと売り込んだ。商船学校をやめて関西電話建物株式会社を設立して商売を始め、その後日本電話建物に社名を改め東京に進出した。無尽業法に抵触するとの理由で警視庁から呼び出しを受け、東京の営業を閉め出された。住宅を建て、電話をひき、加入者が増え、32歳で月給7百円の専務取締役となった。が社長に乗っ取られてしまい、次に中小企業者をバックとする日中貿易を計画し、日華貿易産業株式会社の代表取締役となった。戦局が思わしくなくなり撤収すると、日本電建に戻ることになった。特殊セメントの製造に乗り出し、石灰化学工業株式会社を興したが、再び社長と決裂した。小平で畑を手に入れ、みやげもの屋を始め、これで思わぬ大金を掴み、賀川豊彦先生をくどいて財団法人学徒厚生協会をつくり文部省外郭団体として出発した。共産系の連中が学生の自治で経営すべきと言い出し彼等に基金を提供して退いた。シイタケを東京で作ろうと思い、この作業は2年目に実り、菌類研究所に発展し昭和40年には千三百万個を売り上げた。昭和25年、太平住宅の本格的営業活動を始めた。“三割の頭金を払い込めば家を建てて差し上げます”とのキャッチフレーズで募集をかけ、従業員も150名、事務所も都内に4か所、大阪、神戸に支店を設けた。火災損害保険制度に関心を持ち、太平火災を設立した。52歳で経済学博士の論文テーマし5年がかりで千二百頁の論文を関西大学に提出した。昭和36年参議院議員に立候補したが惜しい所で落選した。関連事業の進出を試み、ビル・サービス業を手掛け、太平木材をコストダウンを図るために系列に入れ、グループ化させ、新宿西口に16階の太平ビルが完成した。屋上に三恩の鐘を置いた。父母の恩、社会の恩、国家の恩である。(昭和43年10月27日死去)