わが母の記 井上靖

1994年4月10日発行

 

巻末の中村光夫の解説には、本作は私小説だが、主人公は作者であっても抽象的存在として描くことでワキ役となり、シテは一個の肉体をそなえた「母」であり、老そのものを正面から扱った一個の物語である、とある。

 

わが母の記

父は軍医少将に昇進するのと同時に退官して郷里伊豆に48歳で引っ込んだ。以降30余年、母と二人で野菜を作ることを仕事として過ごした。父は一種の厭人癖をもっていた。最低の生活費以外は一文も遣わず、80年の生涯は清潔だった。父と最後に会った時、父は右手を渡しの方で差し出し、自分の手の中に収めると、父は私の手を握った。次の瞬間、軽く突き返された感じを持った。それはそれで父らしいと思った。父が亡くなってから自分が父に似ているという思いに捉われることがあった。父の死後、生きていた父が死から私をかばう一つの役割をしてくれたことに気付いた。母の身の振り方が問題になったが、末の妹に身を寄せるようになった。母は同じ話を繰り返すようになった。17歳で亡くなった親戚の俊馬の名をしきりに口に出すようになった。父親の話は出なかった。妻の母が他界した。母のことを見て、母は赤ちゃんに向かって歩いていて今10歳位で停まっていると言った。父は死ぬまで何も消さなかったが、母は己が歩んだ線を近いところから消して行っていた(花の下)。

「花の下」から5年が経ち、85歳の母にはかなさを感じ、そんなことを口にすると、妹から、一緒に暮らすと、そんな余裕はなくなってしまう、途方にくれて悲しくて一緒に死にたくなっちゃうと言われた。東京の妹が面倒を見切れなくなって三島の妹が面倒を見ることになったが、そこでも妹の怒りが爆発した。私の軽井沢の家に母を移したが、4日目には郷里に帰りたがり始め、幻覚が現れた。8月半ばには郷里に戻った。軽井沢に来たこともすっかり忘れていた。母の弟がアメリカから帰国しても弟と分からない様子だった。弟が無くなり、昼はアメリカさんの葬儀で、夜になって初めて弟が亡くなったことに気付いた。母は私のことが赤ちゃんになっているらしく、傍に寝かせておいたら居なくなったと言って騒ぎ出し、外に出て入った。嬰児の私を23歳の母が探していた。4歳違いの弟が19歳で亡くなり悲しんだのかもしれなかった(月の光)

89歳の母が具合が悪くなったと聞き、帰省の準備をしていると、深夜、妹から亡くなったと聞いた。家に母を引き取った時に深夜夢遊病者のように各部屋を廻って家族が驚くという事件が起きた。郷里の妹に引き取ってもらい、喜んで帰ったが、妹の家でも一晩に2回も3回も置き出してあちこち覗き、最後に自分の寝間に戻ると聞いた。妹の娘の出産のため、再び母を引き取ったが、監禁されていると思ったのか、徘徊がなくなっていた。母から、物書きの人が3日前に亡くなったと言われたこともあった。88歳の母の誕生日を皆が集まってお祝いした時、母は鬱々としていた。火葬場で骨片を拾い収めた壺を霊柩車の中で膝の上に置いて、母が長く烈しい闘いをひとりで闘い、闘い終わって、いま何個かの骨片になってしまったと思った(雪の面)