花埋(うず)み 中巻 渡辺淳一

昭和59年10月10日発行

 

東京女子師範(現在のお茶の女子大学)1期生として入学したぎんは、入学を機に「荻野吟子」と名を改めた。当時女性は呼びやすさで名前が決められていたのに反発して吟子と名乗ることにしたものだった。彼女は深夜にトイレの吊るしランプの下で眠くなるまで勉学に取り組み、首席を取り続けた。学友の古市静子が森有礼から捨てられたと知ると単身乗り込み、静子の学費を支払わせる約束を取り付け、卒業時に初めて女医になりたいという希望があることを打ち明け、幹事の永井久一郎教授から紹介を受けた石黒忠悳の骨折りでようやく女人禁制が常識だった時代であるにもかかわらず、高階経徳が院長を務める好寿院に大勢の男性に囲まれる中で紅一点入学許可がおりた。もっとも男子学生からの筆舌に尽くし難い日常的な性暴力やいじめに屈せず、ある時は強姦未遂の事件に遭いながら一歩も怯むことなく、時に実習の際には患者から女性だからということでこの時もいわれなき差別を受けながら忍耐と執念で乗り越え、高額な学費を稼ぐために家庭教師のアルバイトを3つこなしながら、最後の年には症状を再発させながらも、抜群の成績で無事3年目にして卒業した。次の壁は医師開業試験の突破だったが、そもそも当時女性は医術開業試験を受けられなかった。何度願書を出しても前例がないとの理由で試験を受けることすら出来なかった。時に内務省に直談判しようと出向くが相手にもされない。母の危篤の報せを受けてすぐに帰るも間に合わなかった。失意の中で石黒忠悳の下を再度訪れ助力を請い、アドバイスに従って井上頼圀の添書を準備して長与衛生局長の説得を成功して、ようやく女性の開業医受験を許す旨の布達が明治17年になされ一筋の光明を漸く見出すことができた。34歳で初受験し、試験当日も高熱に苦しみながら、女性で吟子はただ1人合格した。医師を目指して15年が経過し、35歳になっていた。 シーボルトの娘いね子が女医第1号と巷間言われることがあるが、いね子は西洋医術開業試験を合格して医師になったわけでない。当時はそもそも試験制度がなく医術の心得を持ち医療に携わることができた。その意味での女医ならばいね子より先に匹田千益、松岡小けん、高場乱子らがいたし、江戸時代にも渡会園、森崎保佑らが、戦国時代にも野中碗がいたし、産婆から転じた産科医は大勢いた。明治18年に産婦人科荻野医院が開業した。病気の苦しみを知る吟子の評判はすぐに上がったが、女性の患者の社会的立場が弱いままでは医師の指示に従わず治る病気も治せないために医師という職の限界を感じ、女性の地位を認めるキリスト教に関心を持ち始め、本郷教会の牧師だった海老名弾正から強く影響を受け洗礼を受けることにした。