1997年6月13日第1刷
目次
まえがき
第1章 幼年のころ
第2章 山への目ざめ
第3章 探検隊の見習士官
第4章 大陸からの引きあげ
第5章 比較文明論への旅だち
第6章 アジアからアフリカへ
第7章 京都大学にかえる
第8章 ヨーロッパと万国博
第9章 博物館づくり
第10章 公私多忙
第11章 世界体験
第12章 老年の波乱
・1920年6月滋賀県生まれ。小学校に入る前に字が読めたため、小学校高学年には漱石、鴎外など粗方読んでしまった。昆虫採集と標本づくりに夢中になった。京都一中、旧制三高、京都大学と進み、三高では山岳部に入部した。大学では動物分類学と生態学に興味を覚え、夢中で勉強した。ポナペ島、中国の大興安嶺探検、大学院、華北の張家口市の西北研究所でモンゴル調査を経験し、戦後京都に戻った。ローマ字運動とエスペラント運動に興味を持ち、これまでのフィールド・ワークの成果はカードに打ち込み、モンゴル研究の結果を論文にしていった。桑原武夫教授から包囲殲滅戦をやってはいけないと教わった。奈良県磯城郡の農村調査、屋久島調査、阿蘇地方の農村調査を行う。大阪市立大で助教授となり、ヒマラヤ計画を立てた時、肺結核になりヒマラヤを諦めた。モゴール族調査隊、アフガニスタン、インド調査で、シュルマン博士とランダウアー氏と出会い、「文明の生態史観」という地球的規模での文明論を考えるようになった。タイ、バンコク、カンボジア等の東南アジアの現地研究の成果を『東南アジア紀行』にまとめた。アフリカの現地調査は『アフリカ研究』に全て収録した。ドイツの山岳文学にハンス・モルゲンターラーの『タート・ウント・トラウム』(『行為と夢想』)という本を青年時代に愛読した。映画『カラコルム』『ジャンボ・アフリカ』に関わり、情報産業論を大きく展開した。京都大学人文研に社会人類学の部門が新設され、助教授に来ないかと誘われ理科から文科に転向した。「櫟社(れきしゃ)の散木になりたや」(荘子)を人生のモットーとしてきた。数学者の秋月康夫教授は数学のいっさいの実用性を拒否しておられたが、何の為に数学があるかを尋ねられると「人類の栄光のためにあるのだ」と答えられたことにしびれた。大学探検部の第一号は京大探検部だが、ヨーロッパ探検隊を実行した。先進諸国の民族学関係の博物館視察のためヨーロッパに出掛け、これを見て日本でもやれると自信を持ち、博物館創設準備室の室長に任命され、国立民族博物館が創設された。1986年、中国の旅でウイスるによる球後視神経炎にかかり色彩感覚を失ったが、口述ワープロうちで著作集を刊行した。現在は8時に寝るが、11時に目を覚まし、ウイスキーの水割りを飲む。1時間様々な想念がかけめぐる。朝は5時に起床する。1日6キロ歩いている。