昭和59年10月10日発行
明治19年基督教婦人矯風会が組織された。吟子は風俗部長の要職につき、「平和、禁酒、廃娼」の3つが運動方針となった。ある時、大宮教会の牧師だった大久保愼次郎の夫人から紹介された同志社の志方之善と出会った。志方は吟子を尊敬しており、意見も一致していた。青年らしく基督教の理想の世界を築くことを目指していた。翌日吟子は久しぶりに紅をつけた。一度京都に戻った志方が2か月後に再び突然吟子の前に姿を現した。大学を辞めたという志方が突然吟子に結婚して欲しいと押し掛けてきた。14歳年上の自分と結婚したいという志方に自分の病気を告げるか悩んだ末、志方の気持ちを受け入れた。が、姉の友子さえ結婚に反対された。周囲は大久保も海老名弾正も皆反対だった。2人だけの結婚式を挙げた後、仕方は北海道で基督の理想郷作りを目指し、同志社の同期生の弟を連れて北海道に分かった。荒地の開拓に明け暮れる志方は冬を前に吟子の元に戻った。吟子は口では医者をやめて北海道に行くことに未練はないと言いながら、迷っていた。志方は再び北海道に戻り、2年の月日が流れた。吟子の許には月1度の割合で志方から便りが届いた。吟子は単身北海道に向かった。吟子の北海道行きは、医師として、社会運動家としての吟子を失うことを意味していたので、周囲は北海道行きを惜しんだ。結婚が間違ってたと皆思った。北海道での生活は吟子にとり想像以上に厳しいものだったが、志方の組合派と対立する会派の方が勢力が大きくなり、敗れた志方は従来の理想郷を北海道に作ろうとする夢から鉱山に夢を託すようになっていた。志方の向こう見ずな性格が再び首をもたげた結果だったが、再び志方は失敗した。吟子は瀬棚で婦人科、小児科医院を開業したが、経済的余裕はなかった。それでも吟子は地域で婦人会を結成し、この会で裁縫、華、生理衛生の講義、女性の在り方、繃帯の巻き方など婦人女子として必要な知識の全てを教えた。志方が京都に戻り同志社を卒業しようとした時期に吟子は札幌で開業したいと考えていたが、20年の歳月は重みがあった。当時の医術では通用せず、新しい知識を得ていない吟子が札幌で開業するのは不可能だと知った。志方は同志社を卒え、正式に牧師として北海道に戻った。が吟子のいる瀬棚に戻るのは時々で志方は桧山一円を巡り聖書を配り歩いていた。肺炎にかかった志方が42歳で先に逝った。体力に自信を失った吟子が東京に戻ると、5年後、63歳で死んだ。