金森徳次郎(国会図書館長) 私の履歴書 文化人15

昭和59年5月2日1版1刷

 

①先祖は美濃のお百姓

②学校嫌いの青い子供

③「ヌケ作」に養子の口が二つ

④人生の方向も他人まかせ

⑤青春のまどい

⑥ライオン氏の勧めで法制局入り

⑦あいつは社会主義者

⑧不当な樺太勅令に抵抗する

⑨国会答弁から機関説論者に

⑩「ブルータス、お前もか」

⑪2・26事件も知らずに

⑫国破れて貴族院議員に

⑬感銘深いふたりの人

憲法大臣として

⑮“ねぎ坊主麦の穂などが…”

図書館人

⑰エンマ様への願書

 

明治19年3月17日名古屋生まれ。小学校の時は活気がなく放心、ヌケ作呼ばわりされていた。小学校上級の頃に養子として貰われた。卒業時は首席だった。中学入学時は人に気づかれなかったが卒業時は主席だった。一高の時もそうだった。東大英法科の時も同様の曲線を描いた。16,7歳から雑読主義が長々と続き、後日この雑学が役に立った。卒業後は大蔵省に入れてもらい、税務監督局属に任ぜられた。1年半後に浜口雄幸さんに引っ張られて法制局参事官に転進した。周囲は明敏滑走型で粘液型の私は途方に暮れた。岡田内閣の時に法制局長官となるが、天皇機関説問題で辞職した。戦後貴族院議員に勅任され憲法改正案を担って議会で弁明した。憲法施工日に新聞社の人から一句書けと言われて「葱坊主麦の穂などがスクスクと」と書いた。秩序あり節度ある文化国家はどうしたら生まれてくるであろうかは心ある人々の憂えるところであった。因縁が熟して生まれ出たのが国立国会図書館であり、その責任者となった。私はユネスコ憲章の前文を愛する。そのうちに戦争は人の心の中で生れるものであるから人の心の中に平和の砦を築かねばならないとあるが、そればかりでなく人間の進みゆくべき道の決定は結局の心の中にあるべきだから、心の基礎を養うべき資料を整備し万人に公平な利用をさせることが緊要である。知識愛と秩序愛を離れては正しい道に入れないと思う。昔穂積陳重先生が法律家はコールドヘッド、ウォームハート冷静な頭と熱情的な心臓を持たねばならぬと言われた。(昭和36年6月16日死去)