2020年9月30日第1刷発行
「超国家主義」という言葉には2つの捉え方がある、という。
1つは「超」を「ものすごい」という意味にとり、「極端な国家主義」として考えるもの。丸山眞男が「超国家主義の論理と心理」という論文の中で示した解釈。
肥大化しすぎたナショナリズムが主権の問題を越えて、個人の内面の問題にまで浸食してくるようになったと考えた。
橋川は、これに異を唱える。「すごい」ではなく「超える」という意味に解釈した。単なる「極端なナショナリズム」として見るのではなく、人間の内面の問題としてとらえるべきだと橋川は考えた。
松陰が唱えた「天皇以外はみな平等である」という人間観こそが、日本に初めて生まれたナショナリズムであるというのが橋川の論理。「維新」は「革命」ではなく、「天皇の下の平等」という本来の日本のあり方を取り戻す「維新」に過ぎないと考えた。
この論理が「昭和維新」を生み出すことになった、と橋川は言う。
私は、ナショナリズムは善悪の問題ではないと思っています。重要なのは、それとの「付き合い方」を考えることで、「良いナショナリズム」「悪いナショナリズム」があるわけではありません。ナショナリズムとは、国民主権という概念を生み出した大きな原動力であり、近代国民国家にあらかじめビルトインされた存在でもあります。
ナショナリズムを乗り越えて、一つの「世界連邦」をつくろうという考え方もありますが、私はそれには反対の立場です。‥世界が一つになって「外部」がなくなれば、黙り込むしかなくなってしまいます。
世界が全体主義に覆われることが最も危険であり、複数の国家が適度に均衡を保っている状態が望ましい。
中島氏の、「昭和維新試論」の特徴的な紹介と、中島氏の考えを抜き書きすると、このようなことを述べているものと思う。
最後に、「どこにナショナリズムの価値があって、どこに危険性があるのか。メリットとデメリット、そしてナショナリズムそのものの構造をよく知ったうえで、『どう付き合っていくか』を考えるべきなのです」として締めくくっているが、やはり私はこの考え方には、どうしても違和感がある。
昨今の国家主義と言われる全体的な空気感から感じ取れるきな臭さや、明治以降の日本が特にアジア諸国に対してやってきたことを真正面から向き合うというスタンスからは、賛同しがたいものをどうしても感じてしまう。中島氏の醸し出す匂いは、人によって感じ方が違うのかしれないが、私はこの匂いは好きではない。